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錦南路街頭放送の闘士チャ・ミョンスク「今も聞かれます、スパイだったのかって…」

登録:2020-02-19 01:24 修正:2020-02-24 11:39
[5・18民主化運動40周年企画‐五月、あの日あの人々] 

(1)街頭放送の主役、チャ・ミョンスクさん 
 
「光州の息子や娘たちが死んでいく」 
鎮圧軍さえ心胆寒からしめた19歳のあの声 
 
スパイの濡れ衣を着せられ懲役10年…父親はショックで死去 
「拷問収監1年6カ月、本読んで耐え抜いた」 
 
2013年の再審でスパイの汚名晴らす 
安東でガンギエイなど全羅道料理店をオープン 
光州に投入された空輸隊員も訪れる 
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1980年9月12日、光州の尚武台(戦闘教育司令部)の「戒厳普通軍法会議」軍事法廷に出廷したチャ・ミョンスクさん=代案新党提供//ハンギョレ新聞社

 5・18民主化運動が40周年を迎える。1980年5月、新軍部のクーデターに立ちはだかり民主主義を守り抜いた市民たちの抗争はその後、韓国社会を大きく変えた。先に5・18を経験した市民たちは、7年後に起きた6月抗争の最先頭で全斗煥(チョン・ドゥファン)軍部独裁の終焉を導いた。韓国の民主主義は6月抗争を超え、5・18に負うところが大きい。5・18の血によって韓国の民主主義が成長する間にも、巨大な事件が個人に残した傷跡は厳然として存在した。名も残さず死んでいった人々を背にして生き残った個人は、本当はあの時、彼らの代わりに死んでいたかもしれない人生の中で、自らの傷を舐めながらようやく40年目の春を迎えている。5・18民主化運動40周年を迎え、ハンギョレが80年5月の写真の中の名もなき個人を探しに出た理由がここにある。何よりこの企画の目的は、5・18民主化運動が遥か遠いこととばかり感じている若い世代と通じ合おうすることにある。無名の人々の名を呼び、彼らの過去と今日を映像にする作業を通じて、5・18真相究明の残された課題と真の記念の意味をともに模索する。<編集者注>

 ピンクの水玉模様のブラウスを着た彼女は、視線を指先に向けていた。

 1980年9月12日、チャ・ミョンスクさんは軍事法廷に立っていた。権力を簒奪した新軍部は5・18抗争の関係者たちを裁くため、光州(クァンジュ)の尚武台(サンムデ、戦闘教育司令部)の中で「戒厳普通軍法会議」を開いた。法廷には武装した憲兵が並んでいた。夏の終わりだったが、法廷内の雰囲気は冷ややかなものだった。80年5月の街頭放送の主役の一人、チャ・ミョンスクさんはこの日、15年の刑を求刑された。19歳だった。

新軍部が5・18抗争の関係者たちを裁くため、光州の尚武台(戦闘教育司令部)に設置した「戒厳普通軍法会議」軍事法廷=代案新党提供//ハンギョレ新聞社

 「写真の中のブラウスは誰の服なのか分かりません。5月に捕まって服が『ムチャクチャ』だったので、裁判を受けに行くと言ったら、誰かが服を渡してくれたんです(笑)」。11日に会った彼女は当時の状況を記憶していた。光州刑務所に収監されて囚人番号の113が記された囚人服を着ていた。女子棟1号室には5・18の女性闘士が多数閉じ込められていた。

 チャさんは、国際洋裁学院に通っていて5月を迎えた。故郷が全羅南道潭陽(タミャン)である彼女は「娘は勉強してはいけない」という父親のせいで学び続けられなくなり、光州にやって来た。周りからは「小さいのが言うことも聞かないし、頑固だ」と言われた。カトリック教会で聖歌隊をしていたら、ある教授からバイオリンを習う機会を得た。教会で知った障害者修道院のカーテンを作って付けるなど、ボランティアもした。カタリナ(洗礼名)は裁縫の仕事を一生懸命に学んで、洋装店を営むのが夢だった。

 しかし、その年の5月が人生を完全に変えた。5月20日午前10時頃、会う約束をしていた友達は約束の場所に来なかった。寮に引き返す時、光州市内の状況を目撃した。軍はデモ隊をメチャクチャに殴りつけていた。世の中のことはよく分からないが、軍人が市民を殴るのは理解できなかった。デモ隊を助けなければという気持ちになった。光州市民に軍人の蛮行を伝えなければならなかった。錦南路3街(クムナムノサムガ)で出会った大学生・青年たちと一緒に鶴洞(ハクトン)の地区役場で拡声器とスピーカーを手に入れ、放送を開始した。

1980年の5・18民主抗争当時、チャ・ミョンスクさん(円の中)が光州市内を回りながら「あなたの息子、娘たちがみな死んでいっている。早く出て来て光州を守ろう」と呼びかける街頭放送を行っている=チャ・ミョンスクさん提供//ハンギョレ新聞社

 チャさんはパーマのかつらをかぶってマイクを握った。チャさんはカラカラに渇いた声で「あなたの息子、娘たちがみな死んでいっている。早く出て来て光州を守ろう」と訴えた。釈迦の誕生日の21日には、光州駅近くで前日に死亡した人の遺体2体を手押し車に積んで、チョン・オクチュ(本名チョン・チュンシム)ら放送チームと共に錦南路に移動した。悲惨な遺体は市民を激憤させる決定的な契機となった。

収監中だったチャ・ミョンスクさんが1980年11月に書いた陳述書//ハンギョレ新聞社

 24日頃、光州基督病院で逮捕され、保安司令部505保安隊に連行された。「集団発砲があった5月21日に錦南路にいたんですが、それを避けて誰かの家のたんすの中に隠れていました。戒厳軍が市外に退却した後、武装した市民軍の拠点となった旧全羅南道庁に入り、基督病院で遺体の収拾をやっているところでした」。保安隊は当時、軍人を市民に偽装させ、群衆の中でスパイでっち上げ工作を行っていた。スパイだと責め立てられ、ひどい拷問をされても、虚偽の自白はせず耐え抜くほど、彼女は頑強だった。同年7月、保安隊と合同捜査本部の軍人たちは、彼女を車に乗せて故郷の潭陽に連れていった。町の人々に「北朝鮮で教育を受け、光州で暴動を起こしたスパイ」と噂を広げた。父親は衝撃を受けて脳出血で倒れ、結局死亡した。

慶尚北道安東市玉洞の食堂「幸せな家」で笑顔を見せるチャ・ミョンスクさん=チャ・ミョンスクさん提供//ハンギョレ新聞社

 苦しみは収監後も続いた。光州刑務所で、別の捏造事件で取り調べを受けた。同年10月には腰のベルトとつながった革手錠をかけられ、1カ月間独房に閉じこめられた。「左手首がみんな腐っていきました。肉がカチカチに凍るみたいに、手が真っ黒になって破れてしまいました」。地獄の中で彼女を救ってくれたのは本だった。周囲の人々が刑務所に差し入れてくれた本を一行一行読んだ。戒厳法違反罪などにより軍事法廷で懲役10年の刑を言い渡された彼女は、1981年12月に刑執行停止で釈放された。逮捕されてから1年6カ月後のことだった。父親の墓参りに行った日、チャ・ミョンスクさんはしばらく泣き続けた。

 今の夫はソウルで出会った。1985年に新林洞(シルリムドン)教会に通っていたときだった。夫は教会の青少年センターの実務スタッフで、同い年だった。教会の学童保育で『カエル少年』という童謡に合わせて一緒にダンスを教えていて親しくなった。1986年、慶尚北道安東(アンドン)の太華洞(テファドン)教会で結婚式を挙げた。夫は5代続くカトリックの家系の長男だった。ハンギョレの創刊株主だった義父は、嫁を誇りに思ってくれた。暮らしは豊かな方だった。初めてあじわう幸せだった。

左から、1989年に嫁ぎ先の慶尚北道安東に引っ越し、子供の面倒を見るチャ・ミョンスクさん。2019年6月にソウルの水曜集会で第3回キル・ウォノク女性平和賞を受賞した時。1986年に教会で結婚式を挙げている様子=チャ・ミョンスクさん提供//ハンギョレ新聞社

 危機は1989年2月に訪れた。国会の5・18真相調査特別委員会の聴聞会を見た夫が「チョン・チュンシムって誰?」と尋ねた。チャ・ミョンスクさんは「私と共犯よ。これ以上聞かないで」と言った。夫は、5・18はアカによる暴動とささやく地元の人々のせいで少なからず傷ついた。多感だった夫の口数が減った。「夫が5・18について何も言わない方が気味が悪かった。苦いとか甘いとか、言ってくれなきゃ分かんないでしょう」。つらいのは彼女も同じだった。我慢できなくなった彼女が「2人の子どもを連れて出て行く」と宣言すると、義父はむしろ自分の長男に向かって「お前が出て行け」と迫った。チャ・ミョンスクさんは「今考えてみれば『ヤコボ(夫の洗礼名)は当時大変だっただろうな』という気がして申し訳ない」と話した。

 厳しい時代を耐えられたのは教会の人々の支えが大きかった。当時の安東のカトリック教会の神父たちは、ほとんどが光州カトリック大学出身だったため、5・18の実状をよく知っていた。ハム・セウン神父との縁も大きな力になった。ソウル聖堂で知り合ったハム神父は、1982年5月から毎月一定金額をチャさんに寄付してくれた。

チャ・ミョンスクさんが2人の息子とともにハム・セウン神父(右)を訪ねた時に撮った記念写真。ハム・セウン神父は、チャさんが苦しい時に勇気をくれた=チャ・ミョンスクさん提供//ハンギョレ新聞社

 80年5月と無関係であるかのように子育てをしながら暮らしていた彼女は、2001年に5・18有功者となり、世に出た。周りは「もう名乗り出て5月の真実を証言すべきだ」と勧めたが、二人の子供は放送や新聞に母親の名前が取り上げられることを望まなかった。それでも彼女は「5・18についての歴史教育をしてほしい」と子供たちの通う学校の先生たちに要請し、学校に自ら出向いて5・18当時の経験を証言した。「ある日、次男がこう言っていました。下級生が自分のところにやってきて『お兄ちゃんのお母さんが誇らしい』と言ったんですって」。今は会社員になった二人の息子は、彼女にとって頼れる力となっている。2013年に安東支所で開かれた再審で、5・18当時の容疑に対しすべて無罪判決を勝ち取った彼女は「胸がすっきりしたし、何より、息子たちにも堂々とできて胸が一杯だった」と語った。

11日、自身の営む慶尚北道安東市玉洞の「幸せな家」の前に立つチャ・ミョンスクさん=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

 彼女は2003年、安東にガンギエイやハイガイなどを食わす全羅道料理専門店を出した。店には安東地域の市民社会団体関係者が集う。80年5月の光州に投入された元空輸部隊員たちもやって来る。一人で酒を飲み、「軍靴を数日も脱がない人間は心情がわかりません」と言ったという。

 数年前には5・18記念財団などの紹介で、済州でひとりの元空輸部隊員の男性に会った。建物の警備員をしている彼は、チャ・ミョンスクさんの顔をまともに見ることができなかった。「何とか話を切り出してきたんですよ。『ぜひ聞きたいことがあるけど、あの時、本当にスパイだったのか』というんですよ(笑)。当時、5月の光州の静かな夜に女性たちのかん高い声が聴こえたら怖かったんですって。後退命令ばかり待っていたのに、自分たちを旧全羅南道庁の前に立たせたと。彼らも被害者だという気がしました」。

 大邱・慶北5・18同志会会長のチャ・ミョンスクさんは、2008年から全国教職員労働組合などと共に、毎年5月には「おむすびの分かち合い」や5・18講演会などの行事を開いている。安東市民たちとの光州国立5・18民主墓地への訪問も欠かさない。愛の練炭分かち合いや長期囚との面会など、ボランティア活動も地道に続けている。夫は「どうして母子3人がそろいもそろって人に与えるのが好きなのか」と冗談を飛ばす。これまでの献身により、彼女は昨年6月に第3回キル・ウォノク女性平和賞を受賞した。

戦闘教育司令部・戒厳普通軍法会議は1980年10月、チャ・ミョンスクさんに懲役10年を宣告した//ハンギョレ新聞社

 チャ・ミョンスクさんは80年5月に街頭に出たことを後悔してはいない。しかし、「40周年を迎える今年からは、ちょっと身を引いていたい」と話した。5・18を背負っている自分の姿が、他人には既得権を捨てようとしないように映るかもしれないと思うからだ。今年の彼女の小さな願いは「5・18のチャ・ミョンスク」を知らない所にふらりと旅に出ること。「ただふわふわ飛んでみたい。インドに行ってヒンドゥー教の寺院にも行ってみたいし…。1カ月だけでいいから、そんな風に過ごしたいですね」。

安東/チョン・デハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://www.hani.co.kr/arti/area/honam/928623.html韓国語原文入力:2020-02-18 05:00
訳D.K

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