去年10月の最高裁判所の判決以後、日帝強占期の強制動員被害賠償問題が韓日対立の中心懸案として浮上した。問題解決のためにムン・ヒサン国会議長は、韓日企業と一般人の自発的基金で慰労金を与えるいわゆる「1+1+α」を打ち出して推進中だ。果たして強制動員問題とは何であり、どうすれば良いのだろうか。長らくこの問題に取り組んできた日帝強制動員・平和研究会のチョン・ヘギョン研究委員(59)に会って尋ねた。
チョン研究委員は「まず政府が乗り出して『当時どんなことが起きたのか』の真相究明からきちんと行わなければならない。そして、中断された被害支援の受付も再開されなければならない」として「そのように責任ある姿勢で取り組んでこそ、日本も『無条件に知らない振りをすることはできない』と思うようになるだろう」と述べた。ムン議長の「1+1+α」に対しては「歴史問題を韓日関係の側面からだけ見て、外交政策の手段にしたものだ。歴代政権が全てそのような取り繕い策で取り組んだからいまだに解決されずにいる」と否定的に評価した。
インタビューは5日、ハンギョレ新聞社で3時間近く行われた。
―まず用語から整理してみよう。強制動員、強制徴用、強制労役があるが、どれが正確なのか。
「強制動員は2004年の『日帝強占下強制動員被害真相究明などに関する特別法』で規定された用語だ。強制的に連れて行かれた過程から強制労働を行うようになったことまで、すべての被害を包括した用語だ。徴用は連れて行かれたという意味で多く使われた。 解放後、これに『強制』という言葉が付いた。強制労役は範囲が労働現場に縮小した意味がある。強制動員が包括的な表現だ」
―どのくらい連れて行かれたのか。
「日帝は1938年5月の国家総動員法制定後、人力・物資・資金など3種類を動員した。人力は延べ人数で780万人。軍人・軍属27万人、労務者753万人だ。慰安婦を除いた数値だ。延べ人数であるから一人が2~3回ずつ行ったのも含まれる。それでは重複を除いた実人数は何人なのか。それは正確には確認されていない。学界では200万人程度と推定されている」
―どのような方法で強制動員を行ったのか。
「企業が募集する方式、官で斡旋する方式、徴用令による徴用、このように3種類の方法があった。初期には募集と官斡旋が多く行われた。ところが、ますます募集と官斡旋に反発する人々が増えた。夫が行ったが生活費を送金をしないから飢え死にするようになったとか、息子が死んだが誰も責任を負わなかったとか、そのような抗議が頻発した。動員をしに行くと人々が鎌や竹槍を持って警察と対立することも起きた。それで後には日本政府が徴用対象を拡大した後に徴用するようになった」
―強制動員は合法的なことだったのか。
「国際労働機構(ILO)で『強制労働禁止協約』が1929年に作られた。日本は1932年に批准した。自ら批准した国際協約も破ったのだ。当時連れて行かれた所は、炭鉱、軍需工場、工事現場、飛行場、港湾、製鉄所、造船所のような所だ。南洋群島と満洲には集団農場もあった。農作業を行い無水アルコールのような原料を軍に納品した。最も多く行った所は炭鉱だ」
―これらの労働条件はどのような状態だったか?
「最も劣悪な場所は、炭鉱と土木・建築工事現場だ。元々日本の炭鉱は囚人労働から始まった。その結果、労務管理が荒かった。一般工場は相対的に勤労条件が良い方だった。しかしながら、勤労条件は職種や場所により千差万別だった。比較的良い条件で働いた人たちもいる。炭鉱も古い所は坑道が狭くて条件が劣悪だった。九州には特に軍艦島のような海底炭鉱もあり、作業が非常に大変だった。一方、サハリンは近代採炭施設も備わっているほど比較的良好だった。にも関わらず、彼らに労働者の権利は許されず義務だけ負ったという点は、すべて同じだった。どの資料にも『退社』という表現はない。『逃走』があるだけで、どこでも逃走者には苛酷だった」
―朝鮮人・日本人の間に民族差別はなかったという主張もあるが。
「これも一律的に言うことはできない。過去に朝鮮人を使った経験がある所では差別がひどく、初めての所では差別が少なかった。また、朝鮮人集団居住地が近い所では差別が少ない方で、そうではない所では差別が激しかった」
―政府が1965年の韓日請求権協定で無償3億、有償2億ドルを受け取ってからも強制動員被害者には出し惜しみしたが。
「1970年代に初めて補償したが、死亡者・行方不明者約8500人にだけ30万ウォン(1970年代初頭の相場で約23万円)ずつ与えた。廬武鉉(ノ・ムヒョン)政権の時に、再度この問題が大きくなると慰労金をまた支給したが、死亡者・行方不明者2000万ウォン(約180万円)、負傷者300万~2000万ウォン(約27万円~180万円)だった。生存者は医療支援金として年間80万ウォン(約7万円)を支払われる。合計7万2000人余りが約6000億ウォン(約550億円)を受け取った。ところが排除された人々がいる。日帝は外国にだけ連れて行ったのではない。国内動員もあった。例えば、忠清道の人が済州島の軍事施設の建設に動員された形式だ。延べ人数が650万人ほどになるのに全て除外された。被害申請も難しかった。それで『大して多くもないお金だからもらうのはやめよう』と諦める人が多かった。申請期間も2008年9月から2014年6月まで4回にわたって一時的に運営して終了した。申請者が急増して財政負担が大きくなるのを懸念し、消極行政をしたのだ。強制動員名簿は今も発掘されている。被害者が追加確認されているが、今は申請することもできない」
―去年10月の最高裁の強制動員被害賠償判決以後、韓日関係が急転直下だが。
「元々この判決は、2012年5月に最高裁で初めて出たものだ。それが高裁に差し戻されて今回再び最高裁に上ってきて確定したものだ。そうであるため、2012年からその間の6年の時間があったが『その間に政府は何をしたのか』と尋ねなければならない。政府がその時に立ち上がってこのような議論にならないよう対策を設けなければならなかった」
―政府はどうすべきなのか。
「金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)政権の時は、慰安婦問題で韓日が対立した時、『お金は私たちが払うつもりであるから、あなた方は謝罪しなさい』と、このように堂々と出た。そのため日本も、『ああ、私たちも何かしなければならない』と圧迫感を強く受けたという。当時はそのように私たちが日本を引っ張っていくことができる力があったが、今はそれを失った。多くの人たちが、日本はなぜドイツのようにしないのかと言う。それは、私たちがイスラエルのようにしなかったからだ。ドイツも初めから自発的に誤りを認めたのではない。イスラエルは1953年、『ヤド・ヴァシェム』という機構を作り、そこでユダヤ人虐殺、強制労働に関することを調査した。そのようにして資料が蓄積されたため、1990年代に米国のユダヤ人が訴訟を提起するようになる。それで米政府まで出るようになり、その結果、ドイツ企業が自発的にお金を出して財団を作る案を用意したのだ。それがドイツの『記憶・責任・未来財団』だ。代わりに被害者は全て訴訟を取り下げた。この財団では、生存者に300万ウォン程度(約27万円)だけを支給して、残りは主にナチス被害などに対する教育・文化事業を行う。二度とそんな事が繰り返されないように記憶して教育するのだ。それにより、ドイツ国民も何を間違ったのかよく知るようになった」
―私たちはなぜ、そのようにならなかったのか。
「私たちが『被害者性』を失ったからだ。被害者性には真相究明の意志がある。何が起きたのか、それを知ろうとする。それを知るようになれば、私たちの権利とは何であるのかも自然に分かるようになる。また、二度とこのような事が繰り返されてはならないという再発防止の意志を共有する。初めから私たちに被害者性がなかったのではないだろう。最初はセウォル号の遺族のような心境だったはずだ。1945年に解放されて強制動員の被害者たちが団体を作って請願もした。しかし、うまくいかずうやむやになった。政府からおとなしくしていろと何もできないようにされたのだ。乗り出せばアカ扱いされた。そのため被害者がどこかに行って訴える所もなくなった。『私たちの父がどこで亡くなったかご存じですか』と尋ねる所もなかったのだ。そのため在日同胞らがこの方たちを迎えて訴訟をするようになった。初めから何を経験したのか関心を持つ機会を逃し、すぐ訴訟してお金を受け取らなきゃならない、という段階に行ってしまったのだ。これは政府がそのように作ったものだ。初めから(政府は)『私たちの父はどこに行ったのか教えてください』と聞かれれば調査もして、また『あなたはこのような権利がある』と教えなければならなかった。そのようにして真相究明も行い、権利も取り返し、二度とこのような事が起きないようにしなければならないという所まで行くはずだったが、これが全てもつれてしまった」
―それでは、これからどうすればいいのか。
「被害者性の回復のために、真相究明からしっかり行わなければならない。これは政府が乗り出さなければ。強制動員の資料は大部分が加害者である日本にある。これらの資料をもらって来なければならないが、それは民間ができることではない。廬武鉉政権の時、国務総理室所属で『日帝強占期強制動員被害真相究明委員会』が設置された。後に『対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会』に変わり、2015年12月に終了するまで11年間存続したが、被害者の申告受付処理など請願業務も兼ねたため、十分な真相調査ができなかった。委員会のような機構を再び稼動して、真相究明も行い、支援金制度も運営しなければならない。そうすれば日本も『韓国政府が被害者に対して最後まで責任を負おうとしているのか。問題は短期間には終わらないだろう』として、この問題を考え直すことになり得る。今日、日本政府は企業に報償金の支給を妨げているが、日本政府が企業に何の指針も与えないでいるだけでも、事はずっとうまく解決することができる」
―今の雰囲気では、日本が資料提供に協力しない可能性が高いと見られるが。
「強制動員関連の一次資料は、大部分が日本が作成した資料にならざるを得ない。それでも資料が日本にだけあるのではない。当時の日本には連合軍の捕虜がいたため、米国、英国にも資料がある。国際赤十字社があるスイスにもある。また、満洲に駐屯した関東軍は資料を焼却できずに土に埋めて逃げたが、それを先日、中国政府が発掘した。シベリア強制労役に連れて行かされた朝鮮人兵士1万人余りの資料はロシアにある。また、個人的にこれらの資料を収集して追跡した方々もいる。そのような資料から確保していって始めることができる」
―ムン・ヒサン国会議長が「1+1+α」を打ち出した。韓国と日本企業、国民の自発的な寄付金で寄金を作り、慰労金を与える案だが。
「その提案には重要な規定がある。基金からお金を受け取れば二度と権利の行使はできないのだ。日本が6月に韓国政府が提案した『1+1』案は拒否して、ムン議長案は歓迎した背景の中心だと思う。しかしこの提案は、被害者社会に対する礼儀ではないと思える。この提案の意図は、差し押えられた日本企業の資産の現金化を防ぐということだ。歴史問題を外交政策の観点からのみ見ている。歴代政権がこのような取り繕い策で解決しようとしたため、いまだに解決することができないのだ。被害者中心主義と言いながらも、実際に訴訟した人々の意思も尋ねなかった。そのように恩恵を施すようにしながら韓日関係悪化を防ぐためにこれに同意せよということだが、そのような方式では解決されることにはなり得ないだろう」
■ チョン・ヘギョン博士はどんな人か
チョン・ヘギョン日帝強制動員・平和研究会研究委員は、2005年から11年間、国務総理室所属の「日帝強占期強制動員被害真相究明委員会」などで調査課長として実務を担当した専門家だ。当時、労務動員被害者の遺骨発掘と資料整理、真相調査、支援金支給、名簿電算化作業などに参加した。強制動員に関連して『トンネルの果てに向かって:アジア太平洋戦争が残した対日歴史問題解法を探して』など単行本を10冊余りを出版し、論文も40本余りを発表した。
チョン博士は日帝強占期の在日朝鮮人の歴史の専攻者だった。1999年、韓国精神文化研究院(現、韓国学中央研究院)で「日帝下の在日朝鮮人民族運動の研究:大阪地方を中心に」をテーマに博士の学位を得た。彼女は「指導教授が『在日朝鮮人問題をきちんと扱うには、強制動員を知らなければならない』と勧め、それ以後日本から活動家が被害者に会いに国内に来ると、私に案内を任せている」と語った。そのようにして1995年から日本の活動家たちと共に全国を歩き回り、強制動員被害者たちにインタビューした。
今夏、日帝の植民地支配を美化した『反日種族主義』が議論になった際には反論に積極的に乗り出した。チョン博士は「反日種族主義に本格的に反駁する反論書をもうすぐ出版する計画」だと話した。