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[歴史の中の今日]日帝が押収「朝鮮語大辞典原稿」ソウル駅倉庫で発見さる(下)

登録:2018-09-09 21:40 修正:2018-09-10 07:03
人に続き言葉まで獄中生活

 1945年光復と共に監獄から解放されたハングル学者たちは、中断していた『朝鮮語大辞典』の編纂を再開した。しかし、辞典の原稿がどこへ行ったのかは分からなかった。原稿が見つからなければ、朝鮮語辞典の編纂は再び数十年遅れるかも知れなかった。咸興からソウルまで、あちこち訪ね歩いたが手がかりは見つからなかった。日本が燃やしてなくしたと推察するだけだった。

『朝鮮語大辞典』第6巻草稿の表紙=写真出処:国家記録院//ハンギョレ新聞社

 そうしている間にソウル駅の倉庫で『朝鮮語大辞典』の草稿が発見されると学界は興奮に包まれた。後で分かったことだが『朝鮮語大辞典』をソウル駅倉庫に無事に運んだのは、他でもないハングル学者たちだった。1942年10月「朝鮮語学会事件」で咸興裁判所で裁判を受けた彼らは判決を不服とし上告した。これに伴い、証明資料として京城高等法院に移送したが、戦争末期の混乱の中でそのまま倉庫に放置された。意味がないかに見えた「判決不服上告」という法廷闘争が、結局『朝鮮語大辞典』の原稿を守る結果になったわけだ。『朝鮮語大辞典』の原稿が、日帝強制占領期間の日本のあくどい弾圧にもかかわらず最後まで対抗したハングル学者の多くの犠牲により守られたという意味でもある。

戦争中でも敢行された朝鮮語辞典編纂

『朝鮮語大辞典』第1巻と第2巻=写真出処:国家記録院//ハンギョレ新聞社

 『朝鮮語大辞典』の草稿を取り戻したハングル学者たちは、まず原稿の整理に取りかかった。日帝強制占領期間の日本による抑圧と人材および経費の不足の中で作った辞典原稿は、補完すべき部分が多かったためだ。語彙の統合、分離、追加、削除など原稿の全面手入れに入って2年余りが過ぎた1947年10月9日、最初の『朝鮮語大辞典』が発刊された。総原稿分量の約6分の1程度を脱稿した結果だった。朝鮮語学会と出版社は、最初の辞典の出版から価格を安く設定し購読者が簡単に購入できるようにした。

「独立新聞」1948年2月6日付=資料写真//ハンギョレ新聞社

 その後1949年5月、二巻が発行された。1950年6月には三巻が製本中で、四巻は印刷の最終段階まで進んでいた。ところでその時に想像もしない戦争が起きた。ソウルは北朝鮮軍により陥落し、朝鮮語学会があった乙支路(ウルチロ)の新会館建物が全焼してしまった。戦争で印刷は中断され、朝鮮語学会理事長の自宅にあった4,5,6巻の原稿も心配な状況だった。

ハングル学会(旧会館)=写真出処:国家記録院//ハンギョレ新聞社

 これに対し10人余りのハングル学者は燃えずに残っていた旧会館に隠してあった原稿を1カ月かけて書き写して二重の瓶に入れ土に埋めた。原本は天安(チョナン)に移し地中に別に埋めておいた。

朝鮮戦争が真っ最中だった1950年11~12月に書き写した第6巻原稿の一部(左)、1953年全州で修正した第5巻原稿の一部=写真出処:国家記録院//ハンギョレ新聞社

 ハングル学者たちは避難中にも辞典編纂を継続した。そして戦争が真っ最中だった1952年10月28日までに四巻の原稿の校正を終えることができた。1953年1月7日からは全州に臨時事務所を整え、五巻、六巻の原稿に対する修正も継続していった。ついに5月26日に完成した。

李承晩独裁政権の「ハングル波動事件」

李承晩大統領=資料写真//ハンギョレ新聞社

 日帝強制占領期間や朝鮮戦争時期にも中断しなかった朝鮮語学会の辞典編纂作業は、想像だにしない事態をむかえる。1953年4月27日、李承晩(イ・スンマン)独裁政権はハングルの簡素化を強要する訓令を公布する。いわゆるハングル波動事件だ。李承晩政権はこれを押し切るために、当時文教部長官だったキム・ボムニンを退かせた。合わせてハングル学会の大辞典編纂事業を支援していた米国のロックフェラー財団の物資も遮断した。李承晩政権は、ユネスコのハングル学会事業5カ年計画援助も無視した。

 だが、政府の「ハングル簡素化」政策は、社会各界知識人の激烈な反対に直面した。こうした雰囲気の中で権力の支持基盤が弱かった李承晩政権はこれ以上政策を強制できなかった。ついに1955年9月19日の大統領談話でハングル簡素化政策を放棄した。

第3巻初版本修正本。1950年6月発行後1957年5月に再発行=写真出処:国家記録院//ハンギョレ新聞社

 これに伴い、ハングル学会の支援団体だった米国のロックフェラー財団も援助を再開した。1956年4月26日にはロックフェラー財団の文化部長であるパス博士がハングル学会を訪問した。同年9月から11月までは印刷用援助物資が何回も船便で到着した。ハングル学会が朝鮮語辞典の編纂事業に没頭できるようになった。学会は散り散りになっていた編纂員を呼び集め、増員を通じて四巻の紙形修正と五巻、六巻の原稿修正を並行した。同時に朝鮮戦争で毀損または紛失した一巻~三巻の紙形を補完して、大辞典全六巻を網羅する総括付録を作成する。

『ウリマル大辞典』完刊の意味

『ウリマル大辞典』第一巻~第六巻全巻(1957年)=写真出処:国家記録院//ハンギョレ新聞社

 ついに1957年10月9日、民族の念願であり魂の溶け入った『ウリマル(私たちの言語)大辞典』が28年ぶりに完刊された。ところで、この辞典は一般語彙の他に主要専門用語や有名な地名、書籍の名前、名勝史跡も網羅して編纂された。これは日帝強制占領期間、光復、朝鮮戦争を体験して、当時私たちの知識を盛り込んだ辞典や百科事典が一つもない状況で国民の便益まで考えてのことだった。

 このようにして完刊された『ウリマル大辞典』は全17巻で、うち12巻はハングル学会が所蔵していて、残りの5巻は独立記念館が所蔵している。

カン・ミンジン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/861217.html韓国語原文入力:2018-09-08 20:26
訳J.S

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