今日から73年前、光復(解放)直後の1945年9月8日、ソウル駅朝鮮通運倉庫で『朝鮮語大辞典』の草稿が発見された。何と2万6500余枚に及ぶ膨大な量だった。
原稿を手に持った朝鮮語学会の人々の目から涙があふれた。『朝鮮語大辞典』の原稿は、日帝強制占領期間の1929年から始まった朝鮮語辞典編纂の結実だったからだ。だが、日本の朝鮮民族抹殺政策により1942年に警察に押収され3年間その行方を知る術がなかった。ようやく取り戻した『朝鮮語大辞典』原稿は、中断された朝鮮語辞典編纂事業にも再び希望を持たらした。
しかし、喜びは長くは続かなかった。『朝鮮語大辞典』原稿は、光復以後にも朝鮮戦争とハングル波動など多くの社会的、政治的混乱の度に受難を体験しなければならなかった。こうした点から『朝鮮語大辞典』は民族の辛い歴史を代弁しているとも言える。
ハングル学者の民族意識
我が民族は、1910年に日本に国権を強奪された後1945年の解放までの35年間、朝鮮語を奪われハングルさえ自由に書けなかった。日本はハングル研究をした学者を「朝鮮思想犯保護観察令」の対象とした。要するに民族主義者を要視察者と見なし監視し始めた。
日本の苛酷な弾圧にもかかわらず、ハングル学者たちはハングルを守るために努めた。本格的な動きは1929年10月31日の「ハングルの日」記念日に各界要人108人が集まって結成した「朝鮮語辞典編纂会」から始まった。編纂会は、既存の朝鮮語学会とともに効率的な辞典編纂のために徹底して業務を分担した。これらの団体は、各種の語彙収集などを通して外来語表記法統一はもちろん、朝鮮総督府の綴字法改正案を自ら修正した。ついに1933年にはハングル正書法統一案を発表するに至った。
このように辞典編纂事業はハングル学者によって結成された大規模団体の主導により進められた。これは単純に朝鮮語辞典を作るという次元を超えて、民族運動の結実を意味するものでもあった。日帝強制占領期間に民族の言語と文字を守るためにハングル学者が体験しなければならなかった代価はあまりにも残酷だった。
ハングル学者たちの受難「朝鮮語学会事件」
日帝強制占領期間、日本が朝鮮人に対する皇国臣民化(天皇への忠誠を強要)のために特に重視したのが「日本語常用強制」だった。日本は1938年3月から朝鮮各級学校の朝鮮語科目を廃止して、朝鮮語の使用を禁止した。代わりに日本語で作られた教科書と日本語を強制した。
日本の朝鮮人民族抹殺政策が加速化につれて、私たちの言葉と文字に対するハングル学者の愛情は一層深まった。朝鮮語学会は1942年3月、『朝鮮語大辞典』の原稿の一部を印刷し、紛失を心配してさらに1セットを作っておいた。日本の監視を避けて原稿の印刷が進行中だった1942年10月、思いがけない事件が発生する。
当時、日本留学生だったパク・ビョンヨプは、咸鏡南道洪原邑前津駅に友達に会いに行き、日本警察の検問を受けることになった。普段から反日感情が強かったパク・ビョンヨプは、日本警察の問いに無愛想に答え、そのために家宅捜索までされることになる。問題は、パク・ビョンヨプの自宅で発見された姪のパク・ヨンヒの日記帳だった。パク・ヨンヒは、当時咸興(ハムフン)永生女学校4年在学中の18歳の学生だった。パク・ヨンヒは2学年の時、日記帳にハングルで感傷的な文を書き、日本警察はそれに難癖をつけ捜査に着手した。
日本警察はパク・ヨンヒ教師だったチョン・テジンを召喚して様々な拷問を加えた。チョン・テジンは朝鮮語学会の会員だった。チョン・テジンを始めハングル学者33人が大挙して検挙された。逮捕された人も48名に及んだ。彼らは検挙と取り調べの過程で過酷な拷問にあった。いわゆる「朝鮮語学会事件」の勃発だった。ハングル学者のうち、監獄に拘禁された29人は水拷問、宙づり、火責めなどで自白を強要された。日本は結局彼らをとんでもない事件に関与したことにさせ治安維持法第1条に該当する内乱罪に追い立てた。当時、洪原警察署はこの事件がでっち上げであることを知りながら、ハングル学者たちを起訴することで事件を終結した。
拷問に苦しめられたハングル学者たちは、監獄で詩を書き忍苦の時間を耐え忍んだ。
(中略)
結局日本は「朝鮮語学会の辞典編纂は朝鮮民族の精神を維持する民族運動」という最終判決を下した。これを口実にハングル教育を廃止して、朝鮮語学会のすべての会員を検挙するに至る。合わせて数十万枚の資料カードを押収し、朝鮮語辞典編纂事業を中断させ朝鮮語学会を強制解散させた。
ハングル学者たちは判決に従わず、直ちに上告したが何も変わらなかった。16人は収監され、うち2人はひどい拷問で監獄で死を迎えた。