国内初の日帝強制占領期間(日本の植民地期)の専門博物館である「植民地歴史博物館」が、庚戌国辱(韓国併合ニ関スル条約)108周年の8月29日、ソウル市龍山区(ヨンサング)の民族問題研究所で開館した。博物館には、1875年の雲楊号事件から解放に至るまで、70年にわたる日帝侵奪とそれに加担した親日派の罪状を正確に記録した史料と展示物がぎっしりと収められている。
ソウル市龍山区青坡洞(チョンパドン)の孝昌院(ヒョチャンウォン)近隣の博物館の規模は、地下1階から地上5階まで延面積1500平方メートル余りだ。博物館には企画展示室と常設展示室、書庫と収蔵庫、研究室などが備わっている。
展示室に保管された日帝強制占領期間の日本の蛮行を証言する史料から一部を集めてみる。
1.純宗皇帝の勅諭と寺内統監の遺稿
純宗が国権を渡すと明らかにした勅諭で、石版印刷された原本だ。「国権を自分が信じて頼る隣国日本の皇帝陛下に渡す」との内容が書かれている。朝鮮初代総督の寺内正毅が赴任して施政方針を明らかにした布告文には「前韓国元帥の希望に応じて、その統治権譲与を受諾する」と書いて、条約締結の正当性を強調した。
2.乙巳五賊 権重顕が受けたメダル
乙巳五賊の1人である権重顕(クォン・ジュンヒョン)が、韓国併合を記念して受けたメダルと証書。権重顕は、1907年1月乙巳保護条約が無効であることを明らかにした高宗(コジョン)皇帝の親書が「大韓毎日申報」に発表された直後、“乙巳五賊”の暗殺を目論んだナ・インヨン、オ・キホらに狙撃されたが、一命はとりとめた。強制併合後、朝鮮総督の諮問機関である中枢院の顧問に任命され、1920年までの10年間、毎年1600ウォンの手当てを受け取った。
3.朝鮮総督府の帯剣
朝鮮総督府の文官が着用した刀。職級と関係なくすべて制服に刀を着用させ、朝鮮人に総督府官吏の権威を誇示しようと考えた。刀の柄と鞘に“桐の紋様”が一つずつ彫られていることから見て“奏任官”が使った帯剣だ。柄には鮫革が巻かれている。
4.千人針と軍慰問品の内チョッキ
千人針は、参戦した人の無事を祈って長さ1メートル程度の白布に赤い糸で女性千人が一目ずつ縫って作った一種のお守り。千人針は、お守りのように腹にまいたり、帽子に通して被っていた。下の内チョッキは、釜山公立高等女学校2年生の山口幸子が「武運長久」と書いた南次郎朝鮮総督の文字と一種の護身符として朝鮮神宮の印鑑を捺した布を重ねて作った内チョッキだ。朝鮮軍事後援連盟が生徒たちが作ったものを集めて軍人に慰問品として送った。
5.宮城遙拝
毎朝“天皇”のいる東に向かって義務的に礼(宮城遙拝)をしなければならなかった当時の姿を撮影した写真。
6.中日戦争の戦闘日誌が記録された日章旗
稲葉部隊歩兵第6師団などが1937年7月から1938年11月までの中日戦争戦闘日誌を記録した日章旗。日の丸の中に南京と漢口を占領した日が正確に記されている。南京大虐殺に加担したと推定される日程が目につく。
7.特別志願兵イ・ウンフィの壮行旗
壮行旗は、青年たちが死にに出かける時に掲げた旗だとして「青春挽章」と呼ばれた。この旗には「祝 陸軍兵志願者訓練所入所宮本恩徽君、国民総力金堤郡(キムジェグン)月村面連盟」と書かれている。イ・ウンフィは1941年、地方公務員試験を受けるため村役場に行き、事実上強制的に志願兵として連れて行かれた。当時妊娠8カ月だった妻を置いて、彼は結局1944年7月11日、南太平洋パプアニューギニアのラバウルで戦死した。下は当時日本軍陸軍兵士が使った軍服と鉄兜、水筒などの軍装だ。