今年の4・3文化芸術公演は、4・3とセウォル号の出会いだった。公演チームは各々4・3を象徴する赤い椿の花とセウォル号犠牲者を悼む黄色いリボンを象徴する菜の花を持って現れた。済州市のかつての政治・行政・文化の中心地だった観徳亭(クァンドクチョン)広場は、4・3犠牲者とセウォル号犠牲者を悼む椿の花と黄色い菜の花が入り混じった。
3日午後2時からは済州民芸総4・3文化芸術祝典が、同推進委員会の主管で済州市観徳亭広場で開かれた。「歴史を迎える祭祀」は4・3の悲劇を描いた小説家ヒョン・ギヨン氏の小説『順伊おばさん』(スニサムチョン)と4・3民衆抗争の絵を描いた画家カン・ヨベ氏の『椿散る』を素材に劇化した。
観徳亭広場は1947年3月1日、警察の発砲により街頭行進を見ていた小学生など6人が亡くなり8人が負傷したいわゆる「3・1事件」が起きたところだ。この事件は、翌年の4・3事件の導火線になった。
市民と観光客が観徳亭広場をいっぱいに埋めた中で進行されたこの日の「歴史を迎える祭祀」は、解放と帰郷、1947統一独立を戦取しよう、1948漢拏(ハルラ)山麓の百姓たち、椿散るの4パートで構成された。解放以後の夢を求めた済州島民が1947年3月1日、観徳亭広場で米軍政警察による発砲で6人が犠牲になったいわゆる「3・1事件」を経て、翌年の1948年「弾圧には抗争だ」というスローガンで起きた4・3武装蜂起、そしてその後に殺された無数の済州島民を描いた。
2008年から9年連続で4・3行事に参加している日本人たちにより構成された沖縄の漢拏山会40人あまりが「トラジの花」などの歌を合唱し、在日同胞3世のキム・ギカン氏の歌公演なども行われた。ソウルのポギョルダンスライブ、チェ・ナジン少年少女合唱団、済州作家会議なども舞台に立った。
今回の文化芸術祝典を企画したチェ・サンドン芸術監督は「ヒョン・ギヨン先生の『順伊おばさん』とカン・ヨベ画伯の『椿散る』は、済州島4・3芸術の根幹をなす。その作品を後輩芸術家たちが解釈し動かない文と絵を動くようにした」として「広場がすなわち民衆だということを見せたかった。「解寃相生祭祀」(ヘウォンサンセングッ)と「歴史を迎える祭祀」を一つの場所で行うことは初めてだ。今年が70周年の事実上の始まりだ」と話した。
これに先立って、この日午前11時には民主労総主催により済州市庁前で「済州4・3抗争69周年全国労働者大会」が開かれ、全国から労働者1千人あまりが行事場所の観徳亭広場まで街頭行進を行った。
2日、同じ場所で行われた行事は、4・3文化芸術祝典のハイライトであった。「戊子年に亡くなった霊魂/70年ぶりに初めてこの場に遺族がいらっしゃいました/2014年4月16日に海中で亡くなった霊魂/セウォル号も陸に上がり、木浦(モクポ)に着きました/まだ9人が閉じ込められて見つからない霊魂…」
この日、「解寃相生祭祀」はセウォル号犠牲者を慰め、3・1事件で犠牲になったオ・ヨンス、ヤン・ムボン、キム・テジン、ソン・トギュン、パク・ジェオク、ホ・ドゥヨンの名前を呼ぶと、これを見守っていた遺族たちはハンカチを目に当てた。「解寃相生祭祀」は文化芸術と伝統的な儀式である祭祀(グッ)の形を借りて、死者と死んだ地を慰める。
遺族を呼んで祭祀をする時は、セウォル号犠牲者の檀園高生イ・ミヌ君のお父さんイ・ジョンチョルさんも参加した。ソ・スンシル大祭祀(クングッ)保存会会長は「セウォル号事故犠牲者には子供が多い。檀園高の子供たちと4・3の時に亡くなった多くの幼い魂が、冥土の楽園である逝川花畑に行くように祈りをささげた」と話した。
詩人のホ・ヨンソン氏(済州4・3研究所長)が行った「老いた母親の祭文」朗読は、観徳亭広場を埋めた聴衆の心をぎゅっと締め付け、済州舞踊芸術院の鎮魂の舞「息をする記憶」もセウォル号犠牲者遺族と3・1事件で犠牲になった若い夫人たちを想起させ強い感動を抱かせた。
済州民芸総のカン・ジョンヒョ理事長は「3・1事件は昨年のろうそく集会と同じ脈絡で起きた。4・3の始まりもまともな国を作ろうという思いから始まった。その要求が出た場所がこの観徳亭広場という場所性に注目した」と話した。