子供の頃、うちの大家族は休みになるとよく集まっていた。叔父の1人は顎髭のないサンタクロースのような巨漢だった。彼はいつも笑っていて、冗談を言うのが好きだった。子供の頃の私は、彼は面白い人だと思っていた。
しかし、大きくなるにつれ、叔父の話があまりにも不適切であることに気づき始めた。彼の冗談にはしばしば人種差別や性差別的な内容が混じっていた。彼はお客さんにも侮辱的な言葉を投げかけた。彼がそのようなことを言うたびに、両親の顔から血の気が引いていくのを、私は見ていた。「政治的正しさを装うこと」(political correctness)という言葉が生まれる前だったが、叔父は本当に政治的に正しいふりをしない人だった。
叔父の最大の欠点は時代に追いつけなかったことだった。米国人は1950年代まで、日常的に人種差別や性差別的な冗談を交わしていた。しかし、米国社会は、市民権運動やフェミニスト革命、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)の戦いの勝利によって変わった。
私の叔父(のような人)が米国の大統領選挙に出馬した。もちろん、ドナルド・トランプ共和党候補が私の叔父であるわけはない。しかし、二人は古い世界観を共有している。米国人がトランプ氏の衝撃的な発言と行動を批判する時、それは昔の米国を批判することだ。彼らは叔父と父と祖父の時代を批判しているのだ。
トランプ氏は、「プレーボーイ」の創立者であるヒュー・ヘフナーが、女性を物のように扱いながら大金を稼いだ時代に成人になった。今でも「キャスティング・カウチ」(女優が制作者と性的関係を持つ見返りに役をもらうこと)という言葉は、男性上司が女性部下に要求する不適切なものの象徴だ。トランプ氏の友人の一人であるロジャー・エイルス前「フォックスニュース」会長のセクハラ問題からも分かるように、米国は「プレーボーイ」の時代からまだ完全に抜け出していない。
多くの米国人男性の行動は変わっていない。しかし、米国社会はもはや彼らの行動に見て見ぬふりはしない。障害を持つ記者に対する嘲弄やメキシコ人に対する軽蔑など、トランプ氏の他の侮辱的な言葉と行動も、一時は米国で容認されていたものだった。
トランプ氏の支持者たちは、トランプ氏が「ありのまま率直に話している」と主張する。実際、トランプ氏は有権者たちが離れて行くことも厭わない。彼は自分の所属政党の指導者までも侮辱する。
米大統領選挙まで1カ月を切った状況で、トランプ氏が大統領になる可能性は非常に低い。11月8日、米国人はトランプ氏の出馬が多様性を快く思っていた時期への一時的な回帰であったことに気づき、自分たちの生きる時代へ舞い戻るだろう。
しかし、歴史の矢が一つの方向に向けて飛んでいくと信じるのは間違いだ。ナチスがドイツで権力を握る直前にも、ドイツは歴史的に最も進歩的な表現の自由と寛容の時代を享受していた。
トランプ氏は1950年代の米国、つまり女性解放と同性結婚、トランスジェンダー運動以前の時代に戻りたと思っている多くの有権者を代表している。彼らはトランプ氏の選挙遊説で勢いづいてきた。
米国は、これからどちらにも傾くことができる。進歩的な方向に何歩か進むかもしれないし、「トランプの米国」に退行するかもしれない。米国に限って言えば、私は前進する方に賭けたい。しかし、トランプ氏だけではない。英国のブレグジット投票、コロンビアの平和協定拒否、フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領の選出、ロシアにおけるウラジミール・プーチン大統領の権力強化などは、いずれも反動の兆候である。
トランプ氏はとんでもない政治家だ。私の叔父のように、トランプ氏は過去の人物だ。しかし、時々過去は私たちを単に苦しめるためではなく、未来を支配するために舞い戻る。明確な欠点がない、それでいてトランプ氏の世界観を持つ誰かが、次回大統領選挙に出馬するなら、私たちは今回のような幸運に恵まれないかもしれない。