登録 : 2015.12.11 08:05 修正 : 2015.12.12 07:19

栃木県佐野市の妙顕寺にある禹範善の墓//ハンギョレ新聞社
 数カ月前、東京に住む在日韓国人研究者がパンフレットを差し出し、私に意見を求めた。日本の栃木県佐野市にある佐野市郷土博物館に行ってみてはどうかという提案だった。

 「佐野ですか。そんな田舎に何かあるんですか」

 「須永という人物を知っていますか?」

 日本の長閑な田舎の村が朝鮮半島と縁を結ぶことになったのは、須永元(1868~1942)という謎めいた人物のためだ。須永は日本の力を借り朝鮮を近代化しようとした甲申政変(1884年)の主役だった金玉均(キム・オクキュン)や朴泳孝(パク・ヨンヒョ)と交流した日本人で、日本による朝鮮併合に帰結されてしまう旧韓末の韓日交流史で独特の存在感を残している。

 佐野の富農だった須永は19歳で福沢諭吉の慶應義塾大学に入学し、朝鮮を含む東アジア情勢に関心を持つようになったものとみられる。そんな彼に、甲申政変に失敗した後に小笠原諸島で幽閉中だった金玉均は、心から尊敬できる“愛国志士”の戦犯だった。この頃から金玉均と書簡交流を始めた須永は、5年後の1889年9月に北海道の幽閉生活を終え東京に上京した金玉均と上野駅で初めて会う。須永は22歳、金玉均はありとあらゆる波乱を経験していた39歳の壮年だった。それ以来、須永は“心の師匠”である金玉均が1894年に上海で暗殺されるまで、佐野の邸宅に彼を住まわせ、様々な支援を惜しまなかった。

 こうした縁で朴泳孝など甲申政変の主役らは、須永の拠点である佐野を訪ね、様々な記録を残した。その記録は「須永文庫」という膨大な量の文書として佐野郷土史博物館に残されている。5日、山口あきよし館長の好意で、朝鮮3大名筆とされる金正喜の書2点、呉世昌、黃鉄の書と絵20点余りを鑑賞することができた。

 須永との縁を維持した人物の中には、訓錬隊第2大隊長で乙未事変(閔妃殺害事件)に加担した朝鮮人の禹範善(ウ・ボムソン)(1857~1903)がいる。事変後、日本に亡命した禹範善は北野一平という名で、日本政府から生活費を補助してもらっていた。

 最近問題になっている朴裕河(パク・ユハ)世宗(大教授が『帝国の慰安婦』で言及した「同志的関係」という表現は、日本軍と朝鮮人慰安婦ではなく、乙未事変を黙認した日本と禹範善の関係を指す時に使われるべきだ。禹範善の息子が「韓国農業の父」となる禹長春(ウ・チャンチュン)博士であることはよく知られる事実だが、ウ博士は、親子に関する話を一度も口にしなかったという。

キル・ユンヒョン東京特派員 //ハンギョレ新聞社

 博物館観覧を終え、禹範善の墓が残る妙顕寺という寺を訪ねた。寺の本堂の背後に無数に並ぶ墓石の中から難なく禹範善の墓を探し出すことができた。禹範善が広島の呉で朝鮮人刺客の高永根(コ・ヨングン)に暗殺された後、東京の青山に安置されていた墓碑を須永が1年後に佐野に分骨したのだという。誰からも見捨てられた墓碑だった。あまりに哀れで涙が出そうになった。

 すでに日が落ち夕暮れになっていた。禹範善は朝鮮を近代化するためには日本の力を借りねばならず、そのために明成王后(閔妃)を除去すべきと判断した。それは禹範善なりの愛国だったかもしれないが、歴史の評価は冷静だ。一人の人間が生まれ、話し、文を書き、行動するためには多くのことを考えなければならない。佐野で暮らしていた禹範善にも、帝国の慰安婦を書いた朴裕河教授にも、この記事を書く私にも当てはまる言葉だ。

キル・ユンヒョン東京特派員(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-12-10 18:50

http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/721285.html訳Y.B

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