北側に帰らなければならない人たちは、バスの窓の外に手を差し出した。南側に帰らなければならない人たちは、バスの周りを取り巻き、必死に手を差し伸ばしていた。卒寿を控えた人たちが北側の親族を乗せたバスを追いかけ駆け寄った。バスの側面を叩き窓をノックした。どうせ離すしかないその手を、なかなか離せずにいた。バスは走り去り、切なさを残した手は上げられたままでいた。 22日午前、雲が重くたちこめる金剛山(クムガンサン)で、65年前のあの生き別れが再現された。2泊3日の第20回南北離散家族再会の第1回目の行事が、新たな離散の傷を残したまま終わった。
同日午前9時(韓国より30分遅い北朝鮮の現地時間、以下同)、金剛山の離散家族面会所。席についた南側の家族たちは、赤くはれた目で入口ばかり見つめていた。別れに向けた最後の再会のため北側の家族が入ってくると、みなが立ち上がった。彼らに与えられた時間は2時間。誰もが互いを抱きしめ、互いにささやきながら、背中を撫でおろし、手を握り合っていた。おんぶをしたり、肩を組む人もいた。彼らは全身で別れを受け入れ始めようとしていた。
雲が重くたちこめた金剛山
バスの窓から手を伸ばし
外から必死に窓を叩いた
バスは走り去り
再会を期しえない別れだけが残った
北側のオ・インセさん(83)は、妻のイ・スンギュさん(85)のそばに座っていた。イさんは、新妻のように夫のネクタイを直していたが、顔を上げることができなかった。息子のチャンギュンさん(65)は、父の手を握り明るく笑っていた。「健康な体で生んでいただき、ありがとうございます」。父の目頭はたちまち赤くなった。紅潮した顔の息子の目からも涙が零れ落ちた。オ・インセさんは、妻と息子、そして嫁を一緒に抱きしめた。「こんな風に抱きしめられるなんて幸せだ。私の人生で初めてだ」。「健康で長生きしてくださいね」。それが妻の最後の言葉だった。息子夫婦は2泊3日の間だけ生まれて初めて会えた父を目に刻み、その場で靴を脱ぐと「ご無事をお祈りします」と跪いて深々とお辞儀した。南側のチェ・ヒヤンさん(66)は、父親に手紙を書いた。手紙を受け取ったチェ・フンシクさん(88)の目から涙が溢れ出した。「ありがとう。お母さんのことは頼んだ...。祖国が統一する日に再会することを願っている」。40代になった2人の孫は祖父の頬に口づけする瞬間を写真に残した。
北側の最高齢者であるリ・ホンジョンさん(88)の娘である南側のジョンスクさん(68)は、「お父さんのためなら命も差し出せる」と号泣した。イさんが北朝鮮で生んだ息子のインギョンさん(55)は、あえて目をそらしたが、やはり涙が零れ落ちていた。イさんの妹である南側のホンオクさん(80)は、兄の手を握り、同じ言葉を繰り返した。「お兄さん、どうしよう...。お兄さん、どうしよう...」
北側の姉、パク・リョンスンさん(82)に弟のヨン・ドゥクさん(81)は、ついこんなことを口にした。「姉さん、私が車で北側に送ってあげる。だから今日は、一緒にソウルへ行こう。2〜3日だけでも...」。2番目の弟のコウンさん(76)は、「子供の頃、姉さんがいつもおんぶしてくれた」と姉を背中で抱えた。「65年前はこうなるとは知らず、泣きもしなかった。どうしてまた離れなければならないの」
面会所のあちこちで涙交じりの話し声が尽きることなく続いていた。『故郷の春』が鳴り響く面会所に、午前10時50分、最後の10分を知らせる放送が流れた。そして別れの歌『また会いましょう』が流れた。彼らはそれまで以上に焦りを募らせた。「体に気を付けて」、「心配しないで」、「ちゃんと食べてくださいね」、「気を楽にしてください」、「必ず生きていてね」、「また会えるよ」…。バスが消え去ってからも、誰かの名を呼ぶ声が面会所の前でコダマのように響いていた。
南側と北側の再会団長を務めるキム・ソンジュ大韓赤十字社総裁とイ・チュンボク朝鮮赤十字会中央委員会委員長は、「一緒に上手くやってみましょう」と手を合わせた。今回の離散家族再会の2回目の行事は、24〜26日に金剛山で行われる。
韓国語原文入力:2015-10-22 19:39