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[インタビュー] 「日本政府もマスコミも隠しているけど福島事故は進行中」

登録:2015-09-06 23:47 修正:2015-09-07 08:14
韓国に来た80歳の脱原子力運動家の水戸喜代子さんと沢村和世さん
左から沢村和世さんと水戸喜代子さん=チョ・ヒョン宗教専門記者 //ハンギョレ新聞社

 時には蝶々の小さな羽ばたきが台風になる。 蝶々のようにか弱い二人のおばあさんが韓国を訪れた。 日本の脱原子力運動家、水戸喜代子さん(80)と沢村和世さん(80)だ。 円仏教環境連帯などの市民団体の招請で来韓した二人は、今月1日の三陟(サムチョク)を皮切りに、盈徳(ヨンドク)、ソウル、扶安(プアン)、蝟島(ウィド)、霊光(ヨングァン)と原子力発電所と関連した地域を順に巡り「脱原子力おばあさんが行く」というトークコンサートを開いている。生来雄弁な二人のおばあさんに4日、ソウル・龍山(ヨンサン)の円仏教ソウル教堂で会った。

 水戸喜代子さんはアジア脱原子力運動家の精神的父と呼ばれる水戸巌教授の夫人だ。広島と長崎の原爆被害を通じて核の恐ろしさを知った水戸巌教授は、1970年の東京大学教授時期から日本の原子力発電所建設ブームに対抗して反核旋風を起こした。 脅迫が相次いだ。 幼い息子に「お前の父親を殺す」などの手紙が届き、またある日は切られた指が自宅に配達されたこともあった。 身辺に脅威を感じた家族は大阪に転居した。 しかし水戸巌教授は反原子力運動だけは中断しなかった。 1979年の米国のスリーマイル事故と86年のソ連のチェルノブイリ事故が相次いで起きると、彼は日本国内での事故の危険性を警告した。 そんな中で86年12月、日本アルプス剱岳に登った水戸巌教授は、物理の学生だった双子の息子と共に遺体で発見された。 一番最初に現場に出動した山岳救助隊長は、「これはただの遭難死ではない。特殊要員によって殺害されたようだ」と耳打ちした。

 家族の死を受け入れられず、泣くこともできなかった水戸喜代子さんはリュックサックを担いで外国を飛びまわった。そうするうちに2002年、台湾で偶然「原発いらん!下関の会」の代表である沢村和世さんに会った。 その時、沢村和世さんは「ちょうど韓国の西海にある蝟島に核廃棄場建設反対運動を応援するために扶安に行くので、一緒に行ってみないか」と提案した。 相当な補償金の誘惑を振り切って核廃棄場反対運動を繰り広げた住民ソ・テソク氏をはじめムン・ギュヒョン神父、キム・インギョン教務たちに会って感動を受けた水戸喜代子さんは、老後の備えの現金100万円を寄付した。

 水戸喜代子さんを再び目覚めさせたのは、4年前の福島事故だった。水戸喜代子さんは「こんな途方もない事故が起こったのに、夫が何も言わずにいるのを見て、夫の死を実感した」と話した。 水戸喜代子さんは数日間泣き続けたという。「その時初めて夫が何をしようとしていたのか、息子が何を望んでいたのか、夫と息子が自分の中に入ってきた。 三人分生き延びなければならないことを悟った」

水戸喜代子さんの夫は故水戸巌教授
「アジア脱核運動の精神的師父」
30年前に二人の息子と疑問の事故死
「4年前の福島原発事故で
何をしなければならないかを悟った」

銀行員出身の主婦だった沢村和世さん
「娘に平和な世の中を遺したい」
原発予定地3カ所の建設白紙化を牽引

 水戸喜代子さんは福島の子供たちがこれ以上放射能に被爆されずに教育を受けられるよう国家が責任を負えという「児童脱被爆訴訟」を提起する裁判の会をリードした。また、大阪から近い福井県にある高浜原発の永久稼動中止訴訟を起こした。 裁判所は「経済と生命を同一線上で語ることはできない」という素敵な判決文で彼女の手を上げた。

 「日本人も忘れかけているけれど、福島事故以後の緊急事態宣言は今も解除されていない。 政府は一般人の年間放射能被爆線量限度を1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに引き上げて、食品は500~1000倍も基準値を上げた。飲料水については何と25万倍も基準値を引き上げた。 福島近隣の18歳以下の居住者の健康診断をした結果、事故前には100万人に1人の割合だった甲状腺癌発生者が3000人に1人の割合に急増した。 今も福島の原子炉配管からは莫大な量の放射能が漏れ出ている。多くの人々が鼻血を出しても日本政府は放射能と鼻血とは何の関連もないとして、再び核(原発)安全神話を説いている。 マスコミも放射能による人体への影響を全く報道していない」

 水戸喜代子さんは「米国は福島事故が起きた後も日本が絶対に原子力発電所を放棄してはならないと主張してきた」として、「原発のプルトニウムが核兵器の原料になるので北東アジアにおける軍事的な理由からプルトニウムを確保しておかなければならないという論理だ」と話した。「一旦原発を稼動すれば、死の灰が出て来ることは避けられず、この灰をなくす方法はない」ということを前提にした彼女は「国家機関が国際原子力マフィアと結託されているが、私たちの未来世代に数万年に及ぶ負債を押し付けることは許されないので、私達の子供たちのために必ず戦って勝たなければならない」と話した。

 彼は日本のすべての宗教集団が太平洋戦争の時に軍国主義を支援したので、宗教に対して懐疑を抱いており信じないとも話した。

 一緒に来韓した沢村和世さんは、高校卒業後に銀行に勤め、女性啓蒙雑誌「婦人公論」の読者会を通じて社会運動に関心を持つようになった。 日本は原爆の被害者であるだけでなく、周辺国に対する加害者だったことを知り軍国主義教育反対運動を支持したが、行動で実践できなかった彼女は「30歳で初めての娘を産んだ後、自分の子供が平和に暮らせる世の中に変えなければならないという思い」で参加し始めた。

 その時から環境運動に乗り出した沢村和世さんは、原発予定地3カ所の建設を白紙化させた。 かつて植民地韓国から物資が運ばれてきた下関で暮らす彼女は、家族や友人らと30余回も訪韓して、忠清南道・天安(チョナン)の独立記念館やソウルの西大門(ソデムン)刑務所、壬辰倭乱(文禄慶長の役)の時に燃えた寺刹などを巡って懺悔の巡礼をした。朝鮮総督府の建物を壊す時は「私も槌を持って一緒にやる」と名乗り出た。

 彼女は「運動は歌でも歌いながら楽しくやらなければならない」として、「活動家が住民たちに教えたり、思いどおりにしようとしてはならず、住民たちの選択を尊重して支援する姿勢を堅持しなければならない」と助言する。

 貧しくとも勇敢な二人のおばあさんは、今回も私費で韓国に来て韓国の活動家たちを励ましている。

チョ・ヒョン宗教専門記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/religious/707645.html 韓国語原文入力:2015-09-06 19:01
訳J.S(2811字)

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