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日本政府公式謝罪ないまま二人の慰安婦ハルモニが同じ日に亡くなる

登録:2015-06-12 22:34 修正:2015-06-13 07:35
 キム・ウェハンさんとキム・タルソンさんが11日逝去
 政府登録238人中、生存者は50人に
 安東と浦項に葬儀室…
 13日に出棺予定
京畿道城南の「少女像守り」会員たちが12日午後、城南市庁前広場の少女像に献花し、前夜故人になった日本軍慰安婦被害者ハルモニのキム・タルソンさんとキム・ウェハンさんを追慕するプラカードを持っている =城南市提供//ハンギョレ新聞社

 「辛かったこと、悲しかったこと、全てお忘れになって安らかにお眠り下さい。後は私たちが解決しますから」。12日午後5時20分、慶尚北道・浦項(ポハン)の市民葬儀場101号。日本軍慰安婦被害者ハルモニ(おばあさん)のイ・ヨンスさん(87)がキム・タルソンさん(90)の遺影の前で涙を流した。 遺影を手で撫でたイ氏は、菊の花一輪を遺影の前に置いて独り言を言った。「とうとう50人になりました…」。11日午後9時15分、日本軍慰安婦被害者のキム・タルソンさんが慶尚北道浦項のある療養院で生涯を終えた。 同じ日午後8時40分には慰安婦被害者のキム・ウェハンさん(81)も京畿道・広州(クァンジュ)のある病院で目をとじた。 2人が亡くなり、政府に登録された慰安婦被害者238人中の生存者は50人に減った。

 キム・タルソンさんは1925年、浦項で3男3女の二番目に生まれた。 18歳だった1943年、母親について浦項の興海(フンヘ)市場でニシンを売っているときに日本の警察に連れて行かれた。ミャンマーで日本軍慰安婦として苦難に遭った。 解放以後、1945年に満身瘡痍になった身を引きずるようにしてミャンマーから船に乗り釜山に到着した。 健康状態が悪くてすぐには故郷へ戻れず、釜山で2年間留まった。1947年に浦項に戻ったが、1950年に朝鮮戦争が起きて兄と弟を共に失った。

 以後、キム・タルソンさんは野菜や魚を売りながら一人で暮らし、49歳になった1974年に夫(当時50歳)に出会い一緒に暮らした。 1996年に慰安婦被害者として登録した。 2006年に結婚式を挙げたが、「私は婚姻届を出す人にはなれない」として婚姻を届けなかった。

 1934年、慶尚北道・安東(アンドン)で生まれたキム・ウェハンさんは1945年2月に日本の北海道に連れて行かれた。 わずか11歳の時だった。 あらゆる苦難に遭い慰安婦生活を耐えたキム・ウェハンさんは徴用に行ってきた夫(89)と結婚した後、慶尚北道安東で暮らした。4男1女をもうけたキム・ウェハンさんは1998年に夫の勧めで政府に慰安婦被害者として登録した。 故人は生存慰安婦ハルモニの中で年齢が最も幼かった。 健康が悪化した故人は2012年にナヌムの家に住居を移した。 キム・ウェハンさんは目をとじる前の数カ月間、病床で日本政府の謝罪を待ちながら闘病してきたとナヌムの家関係者は伝えた。 故人は生前「その人でなしどもは幼い子供を連れて行き無慈悲に凌辱した。 あいつらは人間ではない。 幼かりし時に一緒に遊んだ友達は皆連れて行かれ、死んでしまい私一人だけが生きて帰ってきた」として、日本政府の公式謝罪を要求した。

 キム・タルソンさんの葬儀室は浦項市民葬儀場に、キム・ウェハンさんの葬儀室は慶尚北道安東医療院に用意された。出棺は揃って13日に予定されている。

光州、浦項/キム・キソン、キム・イルウ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/695769.html 韓国語原文入力:2015-06-12 20:58
訳J.S(1553字)

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