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光州の旧日本軍洞窟実測調査、戦争末期の軍事拠点だった可能性

登録:2015-05-26 00:24 修正:2015-05-26 07:18
日帝飛行場の燃料庫…洞窟壁面に“謎”の龕室空間
シン・ジュベク教授チームが20日午後、光州市華亭洞の旧日本軍燃料庫と推定される洞窟で、巻尺を使って洞窟の高さと長さを実測している //ハンギョレ新聞社

 「ここが約70年前に日本軍が燃料庫として使った洞窟です」。シン・ジュベク延世大教授(歴史学)が指した場所の周囲は、真っ赤なクマイチゴの実でいっぱいだった。 クマイチゴ、アカシアがうっそうと茂る草むらに鉄の窓が付いた洞窟が隠れていた。

 埋められた歴史のため息だろうか。 鉄門を開けて洞窟内に入ろうとすると冷気が流れ出た。少し中に入ると、崩れ落ちた土や石が通路に積もっている。一歩一歩、積もった土砂や石を乗り越えた。暗黒の中からコウモリの群れが飛び出してきて、一行を驚かせた。やがて少しずつ現れた洞窟内はコンクリートできれいに覆われた直線状のアーチ型構造だ。天井には電灯線を固定させるための木製端子装置が一定間隔で設置されている様子も窺える。 洞窟の一方の壁面には龕室(位牌や経典を収める箱)のような空間がところどころ掘られている。 シン教授は「用途は謎」と話した。 おそらく消防施設があったのではないだろうかと推定するだけだ。

 20日午後、光州市華亭(ファジョン)洞の光州学生独立運動記念館境内。 記念館と光州市青少年修練院の間の丘陵に散在している旧日本軍洞窟3カ所で、シン教授チームは一時間余りの実測作業を始めた。 洞窟を歴史教育の場として活用するため、光州市教育庁の委託により行われた現場調査作業の最終作業だ。記念館の職員の応援を得てシン教授とチョ・ゴン博士(国防史専攻)は三つの洞窟の高さと長さをはしごと巻尺を使いながら逐一記録した。

 この洞窟は1929年から1945年まで近隣の治平(チピョン)洞に造成された飛行場の燃料庫だった。日本陸軍の管轄から海軍航空隊の基地に変わった1944~45年頃に洞窟を掘ったと見られる。 45年8月の敗戦後、日本軍が渡した「光州航空基地設計図」によれば、旧尚武台跡と治平洞飛行場、ここの燃料庫が巨大な三角形を形成している。ソウル龍山(ヨンサン)の日本軍基地をほうふつさせる程の軍事拠点であったことが分かる。 44年頃から本土決戦用に朝鮮人を強制動員し施設が改築され、日本軍撤収後には洞窟からドラム缶がたくさん出て来て燃料商に売ったという住民たちの証言もある。これまで口伝えでだけ伝えられてきたが、2013年に専門家たちに知られ再照明され始めた。

 この日の実測に困難はなかった。 記念館工事の時、後半部分が切られたが、概して保存状態は良好でコンクリート施設も頑丈そうに見えた。 1・2・3洞窟の長さは、それぞれ64、84、55メートルで、高さは人の背丈の二倍程度の3メートル前後あった。 韓国の各地に残った日本軍洞窟地下室が、大概は自然発破式であり、一直線の洞窟は珍しく、コンクリートで丁寧に作られた華亭洞洞窟は相当な戦略的価値を付与した施設だったという評価だ。 特にシン教授が最近、日本の防衛庁文書庫で見つけた1945年7月敗戦直前の光州軍事施設物地図には、滑走路がもう一つ作られており、華亭洞近隣に他の軍事用トンネルが多く配置されていたと出ているため、追加調査が必要な状況だ。 シン教授は「朝鮮徴用者たちの犠牲を無視した日本産業施設の世界遺産登載をに対して批判が多いが、韓国にも朝鮮人の労働力を犠牲にして作られた軍事遺産が多い」として、「深層調査を通じて日帝軍事遺産の価値を呼び覚ます努力が必要だ」と話した。 シン教授チームは来月初めに現場調査内容を整理した報告書を出す予定だ。

光州/文・写真 ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/692790.html 韓国語原文入力:2015-05-25 20:15
訳J.S(1664字)

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