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1945年 済州島が沖縄に次ぐ激戦地になろうとしていた

登録:2014-08-15 22:30 修正:2014-08-16 07:30
1945年10月1日、米軍爆弾処理班によって爆破された日本軍戦車が燃えている。 写真 アメリカ ナショナルアーカイブス(国立文書記録管理庁)提供

 東シナ海の入口に位置する済州島(チェジュド)は、19世紀末から戦略的要衝地としてされてきた。 日本はすでに1930年代初めから済州島の慕瑟浦(モスルポ)に飛行場を建設し、中日戦争時に中国爆撃の中間寄着地として活用した。

 太平洋戦争が終結に向かっていた1944年9月になると、米軍は日本を海上封鎖するために東シナ海と日本の物資輸送拠点だった朝鮮半島周辺海域に対する封鎖に乗り出し、済州島周辺は米軍と日本軍の激戦場に変わっていった。

 日本は1945年3月20日、本土守護のための「決号作戦」を立てた。「決1号作戦」から「決7号作戦」のうち、日本本土外を対象にした唯一の作戦計画である決7号作戦は、2~5師団規模の米軍が1945年8月以後に済州島や全羅北道(チョルラプクド)群山(クンサン)方面に入ってくると想定して米軍を阻むためのものだった。 日本本土の防壁の盾として済州島を戦場にする計画だった。

 この計画により同年4月、日本軍58軍司令部が済州農業学校に設置され、関東軍111師団を含む4個師団と1個の混成旅団兵力が済州島に集結した。 3月末には約3000人に過ぎなかった日本軍兵力は、5月末には3万6000人になり、解放の頃には6万5000人(朝鮮人徴兵者など約1万1800人を含む)に達した。当時、日本軍は済州島民を動員して米軍の攻撃予想路と見なした慕瑟浦飛行場周辺を含め済州島全域に坑道陣地などを構築し、戦車と戦闘機、各種ロケット砲などを集中配備した。

1945年10月5日、日本軍の150ミリ曲射砲の砲尾でテルミットが燃えている。 写真 アメリカ ナショナルアーカイブス(国立文書記録管理庁)提供

 米海軍は潜水艦で東シナ海と朝鮮半島周辺海域で船舶を攻撃したり、済州島に爆撃を加え人命被害が発生するなど、済州島民は絶体絶命の危機に陥った。 その年の4月14日、米海軍の潜水艦タイラントは済州市の翰林(ハンリム)港近隣まで迫り、日本軍に弾薬を支援する壽山丸(4000トン級)と護衛艦 能美、第31海防艦を撃沈させた。 5月7日には済州島から陸地に避難した済州島民と日本軍徴兵者たちが乗った晃和丸が湫子島(チュジャド)付近の海上で米軍機の攻撃により沈没し257人が犠牲になる参事が発生した。

 当時、九死に一生を得て生き延びたチャン・ボンヨン氏(故人)は、生前に記者と会って「3~4月から陸地に出て行く島民たちが多くなった。 連絡船に乗れず漁船などを利用して陸地に向かい、米軍機の攻撃により沈没する事例が多かった」と話した。 解放直前の8月5~6日には、米軍機3機と日本軍機4機が済州島上空で空中戦を行い、日本軍機はすべて撃墜された。

 日本の沖縄同様に重武装化された済州島に対する米軍の武装解除は、日本の降服後の9月28日から10月上旬に行われた。 9月28日、日本軍は済州島で降服文書に公式署名した。 これと同時になされた武装解除は、米第7師団兵力約100人で構成された武装解除チームが実施した。 武装解除チームは慕瑟浦飛行場周辺にある坑道陣地と弾薬貯蔵庫などを破壊し、各種の小銃と砲などを船に載せ遠海に捨て、その過程で爆弾が爆発し死傷者が発生する事故も起きた。

 パク・チャンシク博士(53・近現代史専攻)は「米軍が済州島に上陸していたならば済州島は第2の沖縄になるところだった。 済州島の駐留日本軍が済州社会に及ぼした影響に関する研究も必要だ」と話した。 第2次世界大戦終盤の米軍の攻撃などにより沖縄では人口の3分の1に当たる12万人が死亡し、窮地に追い込まれた日本軍は沖縄の住民たちに集団自殺を強要した。

済州/ホ・ホジュン記者 hojoon@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/650390.html 韓国語原文入力:2014/08/08 17:02
訳J.S(1749字)