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戦争・開発の波風を耐え抜き90年を持ちこたえた市場建物

原文入力:2012/06/06 23:37(1689字)

←日帝強制占領期間である1920年代に建てられた洋式ショッピングモール アーケードであるソウル、龍山区(ヨンサング)、龍山公設市場(現‘南営(ナミョン)アーケード’)建物内で去る5日午前、商人がお客さんを待っている。 建てられて90年を越えたのに、木造屋根と聖堂式採光構造などが比較的よく保存されている。 キム・テヒョン記者 xogud555@hani.co.kr

1922年に建てられた‘龍山公設市場’
日帝時、日本人ショッピングモールとして使われ
専門家 "保存して子孫に残すべき"

 日帝強制占領期間の1920年代に建てられた洋式ショッピングモール アーケードが韓国戦争と急速なソウル都心開発にもかかわらず、90年間にわたり形態をほとんど変えずに完全な姿で残っている。 ソウル地下鉄4号線 淑大入口(スクテイプク)駅6番出口から出て左側の最初の路地に入れば‘南営アーケード’と書かれた古びた建物が見える。 ソウル、龍山区、漢江大路84道7が住所であるここが、日帝強制占領期間の1922年に建てられた‘龍山公設市場’だ。

 90年の歳月が流れる間、一部形態が変わったりしたが、龍山公設市場は設立当時の姿に近く保存されている。 当時の木造屋根と聖堂式採光構造などが比較的完全に残っていて、米や卵、雑貨を売る店3,4ヶ所が営業している。 <東亜日報> 1923年12月13日付、1937年12月5日付には‘龍山公設市場の火災による修理が終わり再び開始した’という記事が出ている。 米屋を営むK氏は 「このアーケードは日帝時代に作られた建物」とし「ここで生活して40年を越えた」と話した。

 龍山米軍基地地域は日帝時には日本の正規軍である陸軍19師団と20師団を併せた‘朝鮮軍’の司令部が駐留した所だ。 近隣には日本軍の家族や軍務員が暮らした日本式テラスハウスも一部残っている。 店舗14ヶ、509㎡規模で作られた龍山公設市場は日本人たちが利用した一種のショッピングモールだったわけだ。

 日帝は1914年‘市場規則’を制定し、朝鮮の伝統在来市場と区分される各種市場の設置根拠を作った。 公設市場は市場規則で定めた‘第2号市場’であり、1次世界大戦の影響で毎年物価が暴騰すると韓半島に移住した日本住民たちに生活必需品を安く供給するために設置した。 市場運営権は日本人の持分だった。 韓半島の公設市場は1910年、釜山、富平洞(プピョンドン)に作った富平町市場を始め、1941年頃には53ヶ所まで増えた。 龍山公設市場をはじめとして龍山より2年早くソウル、中区(チュング)、芸館洞(イェグァンドン)に建てられた花園町公設市場(店舗38ヶ、631㎡)と麻浦(マポ)(店舗14ヶ)・西大門(ソデムン)(20ヶ)・永登浦(ヨンドンポ)(213ヶ)・関東(18ヶ)・通仁(トンイン)(35ヶ)・新堂洞(シンダンドン)(14ヶ)・敦岩洞(トナムドン)(13ヶ)・恵化洞(ヘファドン)(25ヶ)等10ヶ所の公設市場は解放後にも生き残り小売市場機能を果たした。

 他の公設市場が近ごろ在来市場形態に変わったり消えていった反面、龍山公設市場はまだ当時の姿をほとんどそのまま保存している。

 昨年10月、国土海洋部が確定した龍山公園整備区域総合基本計画を見れば、龍山公設市場がある地域は南営洞(ナミョンドン)商業地区に区分されている。 地域の歴史的都市組織を保存し、龍山公園と市街地の橋渡し役の特性を生かし建築物の用途と高さ、景観などを管理し、有機的な混合を図らなければならないと出ている。 アン・チャンモ京畿大建築大学院教授は「日帝時の建築物でも排斥するのではなく保存して子孫に歴史を記憶させる必要がある」と話した。

パク・キヨン記者 xeno@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/area/536486.html 訳J.S