2016年返還を控えてソウル龍山(ヨンサン)の駐韓米軍基地の将来活用を巡って議論が始まった。 100年以上にわたり外勢の軍隊が駐留し、禁断の土地として縛られていた龍山基地敷地には米・日の軍事施設として建てられた近代建築物と自然環境が交わった世界的な歴史自然遺産として評価される。 <ハンギョレ>は創刊25周年企画として、2016年に市民の手に戻る龍山基地内の見慣れない歴史自然遺産の生き生きした現場を集中取材した。 国土部、ソウル市など当局の保存活用計画と、これを巡る種々の争点、専門家・市民の意見もあわせて紹介する。
2016年に返還され公園に造成される予定のソウル龍山米軍基地。 日帝強制占領期間に朝鮮駐留日本軍の幕舍と解放後こちらを占有した米軍施設が占めているところだ。
去る10日朝、基地内の近代遺跡を調べに出かけた。 そのために1927年に朝鮮総督府が出した<龍山市街図>を準備した。 米国国防部で作った‘龍山ガリソン’地図では昔の建物の分布が分からないため、龍山朝鮮駐屯軍兵営が詳細に出ているこの地図は大切な資料だ。 1979年から‘駐韓米軍の口’として仕事をしてきたキム・ヨンギュ駐韓米軍広報官が遺跡を案内した。
建築物は比較的よく原形保存
公園造成後にも保護価値 高い
病囚監獄は病院として使われ
日本軍忠魂塔は米軍忠魂塔として
朝鮮時代 祈雨祭を行なった祭壇には
米軍人らがバーベキューを焼いて食べた痕跡
■‘龍山の阿房宮(華麗な豪邸)’とバンカー…
龍山基地は梨泰院(イテウォン)路を境界として北側のメインポストとキャンプ コイナー、南側のサウスポストに区分される。 メインポストは主に米軍勤務地、サウスポストは住居・近隣施設だ。 基地内の建物は全部で1245棟。 この内、米軍が歴史性のある建物として分類したのは174棟だ。
1927年当時の日本軍編成を見れば龍山に20師団、咸鏡北道(ハムギョンブクド)羅南(ナナム)に19師団が駐留していた。 20師団は78,79連隊から構成されていた。 龍山には朝鮮駐屯軍司令部を兼ねて20師団と師団司令部の他に、総督官邸、軍司令部と官邸、野砲兵、騎馬兵、工兵隊、陸軍倉庫、衛戍病院、衛戍監獄などがあった。
一番最初に立ち寄ったところはサウスポスト西南端の朝鮮駐屯軍司令部。 1906~1913年に1次建設された。龍山基地地図を見れば軍司令部は龍山駅広場から漢江通(漢江路(ハンガンノ))へ出て、南西に直進すれば直ぐに至ることになっている。 現在残っっているのは二つのコンクリート バンカーの内で小さい方だ。 韓国戦争以前には国軍本部として使われた。
バンカー後方の丘陵に地下に通じる門がある。 コンクリートを注入し封じ込め鉄の門を付けてある。 下方のドーム型通路を通じて総督官邸まで行き来できたという。 初期には朝鮮総督が軍司令官を兼ねていた現実をそのまま反映する構造だ。
丘を間に置いて司令部と背中合わせに建てられた総督官邸は、当時朝鮮駐箚軍司令官だった長谷川好道が露日戦争後に軍事余剰金50万ウォンを投じて作った超豪華な建物だった。 米10万袋に相当する金で建てたこの建物は‘龍山阿房宮’と呼ばれた。 当時一ヶ月の電気料金だけで400ウォンがかかるほどだったので長谷川はもちろん後任者の誰も入居しなかった。 韓国戦争勃発の数日前に火災で焼失し、その場にアミコミュニティ病院が立っている。 展望が良く周辺には米軍将軍宿舎が用意されている。
■白凡金九の暗殺犯が閉じ込められた衛戍監獄の北側に移動するには‘8軍路’を通らなければならない。 基地中央を南北に貫くこの道路は、1908年に作られ漢江通と並んで北に進み、南大門(ナムデムン 崇礼門(スンネムン))に達する。 建設当時‘すべての基地内道路は砲車が通れるようにせよ’という寺内正毅総督の指示により広く作られたという。 午前8時半に北への道は出勤・通学車両で大変な混雑になった。
旧軍司令官官邸があった所。 今は将校宿舎である新しい建物の前に止まった。 返還後、米軍連絡事務所として使われる予定のドラゴンヒル ロッジ(DHL)がよく見下ろせる。 ここは一時、米8軍クラブとして使われたが、韓国歌手がなんとかして立ってみようとした‘夢の舞台’であった。 梨泰院(イテウォン)、弘大(ホンデ)前など部隊外に慰楽施設ができた後にはお客さんが来なくなり将校宿舎に変わったという説明だ。 道を渡れば20師団司令部と師団長官邸があったが、今は師団長官邸だけが残っており、他の用途に改造されて使われている。
次に行く所は1909年に建てられた旧衛戍監獄跡。 屯地山(トゥンジサン)をぐるぐる回って移動しなければならない。 盆地のように深くえぐられたところに位置しており、何が起きても分からないと言う。 大人の背丈の2倍はある赤レンガの塀が取り巻き、外から支持台(バットレス)を頑丈に積み上げてある。 中央の獄舎は韓国戦争の時になくなり、現在は片方の隅に病監1棟と付属建物1棟が残っている。 病監は患者数人を受け入れた監獄で、他所とは異なりペチカの煙突が建物を貫いている。 金九を暗殺した安斗煕が逮捕され収監されたという記録がある。 現在は医務隊が使っていて、軍用幕舎の象徴である半円形の蒲鉾建物1棟も残っている。 塀には韓国戦争当時の銃口があちこちに出ている。 ところでこの大量のレンガはどこで作られたのだろうか。 1927年の地図を見れば、漢江(ハンガン)辺の練兵場(現、国立中央博物館)と向かい合う山裾に煉瓦製作所という名が出ているが、1906年にそちらに民間業者の大規模レンガ工場を建設し基地内のすべての建物はそこで作った赤レンガを用いたという。
基地内で最も展望の良い安山大神宮跡を経て屯地山(トゥンジサン)を降りてくれば、山のふもとのあちこちに旧下士官宿舎がぽつりぽつりと見える。 今は家族のいる米軍人と軍務員が使っている。 60~70年代、国内映画の撮影場所だったという。 米国現地で全てはできない撮影を、米国の雰囲気が出るここで終えたという言い伝えだ。 多くの宿舎は表面をセメントで塗り、玄関を付けるなど外見は変わったが構造は昔のままだ。
■日本軍忠魂塔が米軍忠魂塔に
梨泰院(イテウォン)路の上を横切る陸橋を越えればメインポスト。一番最初に韓国戦戦没米軍忠魂塔に出会う。 円形の7段基壇を石柱7本が半円形に囲んだ真ん中に五角形の塔身があり、その上に追悼碑が立っている。 元来は78連隊練兵場にあったが、そこに1978年に連合司令部の建物を作ったことにより移ってきた。 塔は元々日本軍犠牲者のための忠魂碑。龍山に駐留していた20師団が1931年満州事変、1937年中日戦争、1941年太平洋戦争に出動することになるが、この戦争で死んだ日本軍犠牲者を賛えるために作った。 解放後に駐留した米軍が碑文だけを変えて米軍忠魂塔にリサイクルしたものだ。 その横には韓国戦以後の戦死者追悼碑が別に立っている。
メインポストは日本軍歩兵78連隊と79連隊の兵営だった。 現在78連隊の跡には2階建ての軍幕舎5棟と2棟の付属建物、79連隊には軍幕舎1棟が残っている。 原形をほとんどそのまま維持しており米軍事務棟として使われている。 この建物は日帝強制占領期間に韓国人を徴用した日本の建設会社 大林組が築造したと言う。 出入り口2階の破風(傾斜した屋根面と壁の間の三角形の空間)には星が彫られており軍幕舎だったことがわかる。 79連隊側に残ったテントは先に建てられた78連隊建物とは異なり、ペチカの煙突を細かく外に出し、それが建物支持台を兼ねている。 日本軍が韓国の気候に適応しようとした証拠と読まれる。
■旧ソ連軍代表が宿舎としていた将校宿舎78連隊練兵場跡にある韓米連合軍司令部建物を過ぎて蔓草川(マンチョチョン)を渡れば旧日本軍将校宿舎が現われる。 韓国戦争で2棟の内1棟が生き残った。 解放空間では米ソ共同委員会の当時ソ連軍代表の宿舎として使われ、その後は米軍部隊が駐留し、韓国戦争直前には軍事顧問団が使った。 化粧壁土で外装処理しただけで原形をそっくり保管している。 後方の衛戍病院建物は完全になくなっている。
南山(ナムサン)に源を発し漢江(ハンガン)に流れ込む蔓草川は連隊兵営を作る過程で直線化された。 蔓草川は78,79連隊の正門前を通るが、一種の掘の役割も果たしたと伝えられる。 川辺道路は兵営に出入りする主道路であった。 兵士たちが龍山駅に移動する時、入隊した息子の面会に来た両親たちが行き来した道だ。 部隊外の生活汚廃水が流れ込み臭いが激しかったが2年前に下水管路を別に設け臭いをなくしたという。 続けて戦争記念館の後方を見ながら蔓草川の沿って進めば、1909年に作られた旧兵器廠が出てくる。 弾薬と兵器を保管した倉庫だ。 衛戍監獄の塀のように外側にバットレスを当てて丈夫に作られている。
最後に立ち寄ったところは旧野砲兵営だったキャンプ コイナー。 平たい場所なので日本軍砲兵隊が駐留したという。 現在残っている建物は殆どないが、砲兵隊を象徴する記念塔が部隊の入口付近にある。 砲弾形に整形された赤い花こう岩の柱に‘一誠貫之’と刻まれている。 一発の正照準で貫くという意味で、砲兵精神を象徴している。 旧衛兵所そばの丘の上には花こう岩の祭壇と石垣の一部が見える。 朝鮮時代に祈雨祭を行なった南檀遺跡と推定される。 米軍がバーベキューを焼いたようで真っ黒な煤煙が付着している。
比較的状態が良い建物と遺跡を中心に見て回ったが、生き残った他の建物もよく保存されている方だ。 特異なのは、大地を削って無理に上げた高い建物がなく、自然の地勢がそのまま生きていて、地勢に沿って建物が建てられている姿がそのまま見えるということだった。 龍山基地は保存し活用する価値のある歴史・文化的資源を相当数抱いていた。
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龍山基地の120年、日本軍が退くなり米軍が…
龍山基地は韓国近現代史の悲劇をそのまま大事に保管している。
龍山は1884年日清戦争の時、日本軍の宿営地になり日本軍の拠点として浮上した。 特に1904年露日戦争当時、日本が鉄道監部を通じて現在の龍山駅広場に3940坪の建物を作り庁舎として活用しながら、龍山は日本の韓半島鉄道経営の中心地になった。 1905年龍山基地一帯の300万坪を収用した後、一部は鉄道用地として分割し、117万9800坪を軍用地として確定した。 以後、日本は1913年まで龍山を咸鏡道(ハムギョンド)羅南(ナナム)と共に日本軍兵営にして使った。 日本軍基地を囲み貫く主要道路も完成された。 今日の漢江(ハンガン)大橋から龍山路、南営洞(ナミョンドン)、葛月洞(カルォルドン)を経てソウル駅に至る直線道路である漢江(漢江路(ハンガンノ))がこの時に敷かれ、厚岩洞(フアムドン)から龍山高等学校横を通り、南側の漢江辺練兵場に至る軍事道路が1908年に完成された。
1927年に朝鮮総督府が作成した<龍山市街図>を見れば、龍山基地内には梨泰院(イテウォン)路を境界として北側に第78連隊、第79連隊など歩兵2個連隊と野砲兵が駐留し、南側には師団司令部と師団長官邸、軍司令部と司令官官邸、朝鮮総督官邸の他に将校と下士官宿舎が集中的に配置された。
日本は1914年に行政区域を改編し、当時は高陽郡(コヤングン)に属していた龍山をソウルに含ませた。 以後、太平洋戦争開戦直前まで龍山基地内部隊の基本編成と空間配置を変えなかった。 1945年龍山基地の朝鮮軍司令部は第17方面軍司令部と朝鮮軍管区司令部に改編された。
8月15日光復(解放)以後、龍山から日本軍が撤退し米24軍団司令部が入った。 以後、米軍政が終了し駐韓米軍は1949年軍事顧問団500人だけを残して撤収した。 だが、1950年に韓国戦争が勃発し米8軍が韓国に上陸し、1953年に龍山基地に移ってきた。 1957年日本、東京にあった国連軍司令部がソウルに移ってきて駐韓米軍司令部も新設された。 駐韓米軍司令官を兼職した米8軍司令官は1978年に創設された韓米連合司令部司令官も兼ねることになった。
現在の龍山米軍基地には、練兵場を間に置いて韓米連合軍司令部と駐韓米軍司令部を中心に小・中・高校、大学分校、輸送団、121病院、アパートなどの住居施設と米軍放送、慰楽施設が入っている。
文 イム・ジョンオブ記者 blitz@hani.co.kr