2日午後、京畿道安山(アンサン)市檀園(タンウォン)区のMマンション106号室。8人の青少年が狭い部屋に座ってコンピューターの画面をじっと見つめ、「ああ、どうしよう…」を連発していた。画面の中で、固く瞑った目からは涙がとめどなく流れていた。長く美しかった母の髪がハサミでばさっばさっと切られていく場面(政府側のセウォル号特別法施行令案の廃棄を要求する遺族たちの剃髪式)をインターネット生中継で見守っていた彼らは、言葉もなく互いを見つめ合った。
ここには、セウォル号惨事で兄弟姉妹を失った10~20代の青少年30人余りが毎日集まってくる。惨事のまた別の犠牲者である彼らの世話をしてきた安山地域の10個の社会福祉館ネットワークが、昨年11月に立ち上げた治癒と追悼の空間「一緒に」だ。
彼らは「この1年間は見捨てられた存在になったような感じだった」と打ち明けた。姉や兄の遺体を探して両親が全羅南道珍島(チンド)彭木(ペンモク)港に駆けつけた時、一人で家に残り、妹や弟や姉さんの葬儀を執り行なって嗚咽する親たちの後ろですすり泣くときも、いつも一人だったからだ。
檀園高校2年故ナム・ジヒョンさんの姉、ソヒョンさん(24)は、「両親は真実糾明のため街頭に出て、一人残った家では事実上家長の役目をしなければならなかったけれど、常に後回しにされているという気がしたのは本当」と、辛かった1年を振り返った。 さらに、「近所同士で昔から知っている仲だった犠牲者の兄弟たちが集まることはできたけれども、後ろ指を差されるかと思って笑うこともできなかったし、お互い刺激しないようにと、思いのままに泣くこともできなかった」と語った。 姉を失ったある中学生は「学校でセウォル号遺族のカウンセリングを行なうからと先生に呼び出された時、他の子たちがひそひそ言うのが嫌で、いつも一人でいたかった」と打ち明けた。
犠牲者の兄弟姉妹たちは「昨年の4月16日以降、家が6カ所になった」と言う。親たちがよく集まったり座り込みをする光化門(クァンファムン)と国会、大統領府への通り道であるソウル市清雲(チョンウン)洞、安山の合同焼香所、珍島の彭木港、そしてセウォル号乗組員などに対する裁判を行なっている光州(クァンジュ)地裁の6カ所だ。
「一緒に」のパク・ソンヒョン事務局長(社会福祉士)は、「これまで『セウォル号の遺族と言えば親たち』という認識が強く、犠牲者の兄弟姉妹たちが受けている苦痛は相対的に埋もれてきた」と指摘した。パク局長は「相当数の兄弟姉妹たちが親と一緒に行動したいと思っているが、親たちは『お前まで失いたくない。じっとしていておくれ』と言っている」と話した。セウォル号惨事で兄弟姉妹を失った10~20代は160人余に上る。