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[ルポ] 訪韓したベトナム戦争虐殺生存者と過ごした一週間(2)

登録:2015-04-11 11:36 修正:2015-04-11 20:36
日本軍慰安婦お婆さんたちとの出会い
ベトナム戦虐殺生存者タンさん(後列左)とロンさん(後列右)が8日、ソウル日本大使館前の「水曜集会」に参加し、慰安婦被害者のキム・ボクトンさん(左)とキル・ウォンオクさんを慰め共に立っている 写真カン・ジェフン先任記者//ハンギョレ新聞社

 展示会場はベトナムと韓国に建てられた戦争関連の石碑、民間人虐殺状況を証言するベトナムの人々の姿で満たされた。人々の写真の前には、くすんだビニールが日除けのように設置されていた。イ氏は「ベトナム戦争当時、米軍は死体を処理する時に主にビニールを使った。彼らにとりビニールは米軍の非常食だったCレーション同様、戦争を思い出させる媒介物」と語った。くすんだビニールの向こう側にある写真の中には、深い皺に窪んだ眼をしたあるベトナムの老婆が、悲しみが込み上げ涙が溢れ出そうな顔で幼い孫の顔と向き合っていた。伝えたいけど、伝えきれそうにないどんな言葉より雄弁だった。

 「坊や、この話を絶対に忘れないで。韓国の軍人たちが私たちを爆弾の窪みに追い込んで、みんなを撃ち殺したのよ。坊やが寝ていても、この話だけは忘れないで」。ロンさんとタンさんが写真展の後で参加した「水曜集会」でプラカードに書かれてあった文だ。伝えたいけど、伝えることができなかった老婆の話だったのではなかろうか。

 韓国挺身隊問題対策協議会は毎週水曜日、ソウル鍾路区中学洞の駐韓日本大使館前で水曜集会を開く。この日は150人余りの参加者が集まった。ロンさんとタンさんは写真展観覧を終えた後、近くの集会場まで歩いて行き、キム・ボクトンお婆さんとキル・ウォンオクお婆さんの後ろに立った。カメラマンが集まり二人の表情は硬くなったが、すぐに決然としたものに変わった。誰かが気楽な表情を求めると、その時になって初めて軽く笑った。ユン・ミヒャン挺身隊対策協代表がマイクをとり、「再びどんな戦争でも、性的暴行被害者や民間人虐殺被害者を出してはならない」と叫んだ。タンさんは「お婆さんたちと韓国の友達にご挨拶します。私の名前はウンウイェンティ・タン、韓国軍による民間人虐殺の生存者です。虐殺があった時は8歳でした」と語りかけた。タンさんが発言する度に、集会参加者は申し訳なさそうにため息をついた。タンさんは集会が終わった後、車に乗ろうとするお婆さんを助けてあげた。

 ロンさんとタンさんが日本軍慰安婦被害者のお婆さんたちと会うのはこの日が初めてではなかった。訪韓初日、宿で旅装を解くとすぐに訪ねた場所が、お婆さんたちが暮らす京畿道広州市の「ナムヌの家」だった。訪韓初日の4日午後遅くにナムヌの家に着いた彼らは、平和博物館の共同代表でもあるイ・オクソンお婆さん(88)をはじめ7人のお婆さんと会った。

 ロンさんは1966年の2月から3月に1004人が亡くなったヴィンディン省トイビンサ虐殺の生存者だ。虐殺で母親と妹を失い、孤児として育った。タンさんは1968年2月12日、住民74人が犠牲になったフォンニィ・フォンニャット村虐殺から生き残った。その日、母親、弟、姉、叔母、甥など5人の家族を失った。彼らの事情を聞いたユ・ヒナムお婆さん(87)は「戦争被害者の苦しさと悲しみを本当に理解できる人はあまりいません。同じ被害者として会えて本当にうれしい」と話した。加害者が韓国軍と日本軍の違いがあるだけの2人の被害者はすぐに共感でき、痛みを分かち合えた。

ベトナム戦争で韓国軍に家族を奪われ負傷したウンウイェンティタンさん(左)が8日、ソウル・鍾路区の日本大使館前で開かれた「日本軍慰安婦問題解決のための定期水曜集会」に参加し、慰安婦被害者キル・ウォンオクお婆さんと挨拶を交わしている //ハンギョレ新聞社

韓国語原文入力:2015-04-10 20:31

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/686392.html訳Y.B

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