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[探査報道]李明博政権の資源外交(2)失敗したクルド油田開発の責任は誰に…

登録:2015-01-21 02:13 修正:2015-01-21 07:03
京畿道安養の旧韓国石油公社のロビー。その後石油公社は蔚山に移転した。キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

公社職員の災害調査書・警察記録
「上司は任期が終わればいなくなる
結局は自分が責任を全てかぶることになる」
上部の叱責と事業拡大に負担を感じ
辞表2回受け付けられず極端な選択に

 「(イラクの)クルド事業が後に問題になることが確実だと言っていました。後で問題が弾けた時には上司は任期が終わって会社にいないし、結局は実務を担当した自分が責任を全てかぶることになると心配していました」

 彼の妻が残した言葉だ。彼女の夫の話を直接聞くことはできなかった。彼は2011年6月3日、自宅のトイレで人生を終えた。朝7時30分頃、15年間も出勤の時に結んでいたネクタイに、彼の体がぶら下がっていた。石油公社中東探査チームのペ課長の話だ。 当時40歳、二人の子供の父親だった。

 当日の朝、夫の死亡を会社に知らせた妻のイムさん(41)は「こんなことが起きることを(会社は)ある程度予想していたような雰囲気だった。腹が立って気がおかしくなりそうだった」として「政府が死活をかけて参入した事業に…こういう話にもならない大変な環境で(夫は)黙々と働いていた」と話した。

 こうした事実はハンギョレがハン・ジョンエ新政治民主連合議員室を通じて入手した故ペ課長の「災害調査書」(勤労福祉公団)と警察の調査記録で確認された内容だ。

 遺族の怒りが会社と政府に向かったのには理由がある。 石油公社は大学で地質学を専攻したペ課長の最初の職場だった。 寡黙なことで知られる彼が「国内探査チームに勤めた時は幸せだった」と話したことを同僚は記憶している。 ペ課長は2010年12月から中東探査チームとしてイラクのクルド事業の実務責任を任された。不幸の始まりだった。

 イラクのクルド原油開発事業は“李明博資源外交”の最初の結実だった。 2008年2月、李明博大統領職引継ぎ委員会が介入してクルド地方政府を相手に19億バレルの油田鉱区を確保した。 実際に掘ってみると金になる原油は多くなかった。それどころか石油公社は約束した建設投資(SOC)に足を引っ張られた。 クルド政府が建設投資事業が振るわないとして、当初契約した補償原油量を減らし、建設投資額を現金で求めるよう契約変更を要請してからだ。 ペ課長に人事発令が出た当時の2010年末に、該当事業の損失額は1兆3000億ウォン(約1400億円、監査院監査結果)に肉迫していた。

 李明博資源外交に囃し立てられ、石油公社は暗礁の上でも櫓をこぎ続けた。 ペ課長側は「現政権の資源外交国策事業で、会社は石油事業に参加する代わりにクルド地域に社会基盤施設を提供することにしたが、探査が期待に沿えなかった。 それでも会社は(むしろ)事業範囲を拡大した」と話した。

 実際、会社の法務チームのコ課長(弁護士)は「公社は民間企業とは性格が違い(事業内容に対する)一回きりの政府申告にとどまらず、政府が要求すればいつでも情報を報告しなければならず、事業の方向について点検を受けなければならない」とし、「公社はクルド政府との契約修正を通じて事業範囲を拡大する作業をしていた」と話した。 また別の職場同僚は「社長、副社長から多くの指示や叱責を受けて、負担が重くならざるをえなかった」と話した。

 週5日のうち平均4日は残業をしていたペ課長の身は崩れた。業務の苦痛に不安感が重なった。 ある同僚は「イラク事業自体が無理な事業の推進で、手続き的、法律的に矛盾が多いと(ペ課長が)吐露」していたと話す。 自宅では睡眠誘導剤を服用し始めた。 会社では「拘束される」「死にそうだ」という言葉を繰り返していた。

 いつか「監査を受ける時、全て喋ってしまおうか?」と尋ねるペ課長に、妻は「韓国では内部告発者の人生はあまりに荷が重いから、黙って自分が辞めてきて欲しいと言った」とだけ話した。

 ペ課長は5月30日に辞表を提出した。命を投げ打つ4日前で、4月20日付の辞表に続き2回目の辞表だった。 会社は受け取りを拒否した。

 6月に入って契約交渉のためのクルド出張準備がペ課長に割り振られた。 カン・ヨンウォン社長、キム・ソンフン副社長らが同行する筈だった。

 その頃だった。 トイレの前でうずくまって泣いているペ課長を同僚たちは見ていた。6月2日朝、ペ課長はスリッパを履いて出勤したが、しばらくすると家に戻って来た。 夜11時を過ぎて退勤した。 終日会議だった。 帰宅したペ課長に妻は意識的に言葉をかけず暖めておいた紅参スープを渡した。 寝る前にたばこを吸いに家の外に出て行く習慣のペ課長は下着姿だった。 居間で寝ていた妻が驚いて服を着せた。 明け方5時頃、ペ課長は起きた。再び横になって6時30分頃にまた起きた。 7時頃たばこを吸って入ってきた。 そしてペ課長は永遠に出勤しなかった。

 10カ月後の2012年4月、石油公社は内部補償審議を開き、ペ課長の遺族に補償金1億5000万ウォン(約1600万円、葬儀費1200万ウォン別途)を支払った。合意書には「(会社)役職員に故人の死亡と関連した追加的な民刑事上の責任を提起しない」という条項が含まれていた。

 死亡から1年余り経った2012年7月、ペ課長は労災補償保険法上、業務上災害と認められる。家族は石油公社から受け取った補償金を全額返却した。 それもまた合意事項だった。

 妻のイムさんは「当時、葬儀場に来た(カン・ヨンウォン)社長に私の弟が『あまりに腹が立って我慢ならない』で言ったところ、社長はいぶかしげな表情を浮かべて『毎週会議をしていたが、ペ課長は辛いという話を一度もしなかった』と言った」として「5月30日付けの辞職願いが机の引き出しから出てきたという話を聞いて胸が裂けるほど痛かった」と話した。

 ペ課長は遺書も残さなかった。 黒いぎっしり書き込まれた“資源外交”用業務手帳だけが家族のもとにようやく戻ってきた。

イム・インテク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/674559.html 韓国語原文入力:2015/01/21 00:51
訳J.S(2618字)

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