私は水曜集会に一度も参加したことがない。
私は「女子高」3年の夏休みにテレビで金学順(キム・ハクスン)さんの証言を聞いたが、隣にいた「男」の大人は、1987年の6月抗争以降、韓国社会の民主化と進歩を深く考える知識人の一人だった。彼はニュース報道を見るなり、「民族の恥をあんな風にさらけださなければならないのか」と非難した。金学順さんの証言後の秋頃、「慰安婦」を再現したドラマが流行したが、学校で生物の教師が、鉄条網越しに男女の主人公がキスするシーンを事細かに説明し、「慰安婦」役を演じた「女」の俳優の胸がかなり大きいという話を重ねて強調した。「慰安婦」について、私に話しかけた二番目の「男」の大人だった。
大学に進学すると、学校で数人の女子の先輩が基地村の活動や水曜集会に出ようと話しかけてくるようになった。私は基地村の活動にも水曜集会にも関心があったが、私が何かを悩んで選択する前に、街頭デモの現場へ、立ち退き住民の戦いの場へ私の手を引いて連れて行く先輩たちがいた。そして彼女たちは常に「韓国社会はいろいろな矛盾が重なっているから、まずは急を要していて重要な問題から解決していくしかない」ということを口癖のように言っていた。
口述敍事を専攻して大学の教授になった後、学生たちと一緒に「日本軍慰安婦」の記憶を持つ女性たちが口述した話を読み、関連する小説や映画を観てこんな話を交わしたこともあった。
韓国社会で「日本軍慰安婦」に対する記憶は1991年まで封印されていた。記憶の封印とともに、彼女たちの人生と苦痛も存在しないことになっていた。金学順さんが口を開くまで、彼女たちの存在は幽霊のようだった。ただ風の噂で聞こえる話があるだけだった。彼女たちの証言は決して忘れられない暴力の記憶を世にさらけだすことであり、それ自体が再び苦痛の中に吸い込まれていくことだったが、当時この言葉に耳を傾けようとする人は少なかった。彼女たちは自分たちのそばに寄り添った人々と連帯し、国内外の法廷と証言の場を訪ね回った。人々は彼女たちに「最大限感情を排除し、正確かつ客観的に」話すよう求め、「そうすれば他の人たちが聞いてくれる」とも付け加えた。人々は暴力の記憶を「正確かつ客観的に語る」ことは不可能だということを理解できず、世間の関心は韓日間のイシューが浮上したり静まるのに従って上がったり下がったりするのが常だった。ある人は検事や判事のように「私が判断してあげるからファクトを話してみろ」という態度で証言を求め、ある人たちは彼女たちの言葉とは関係なく「民族」という言葉が呼び起こす情動に自分一人深く捕らわれていた。
映画の中で証言に立った女性たちは、みな服を脱いで自分の傷を見せる。彼女の言葉を信じなかった人々は皆、その傷を見て深いため息をつき、ようやくその言葉を信じるようになる。「日本軍慰安婦」を再現したすべてのストーリーとイメージは「少女」あるいは「ハルモニ(おばあさん)」に限定される。そして、ここに重要な修飾語が入る。「純潔な少女」、そして「純粋なハルモニ」だ。私は、韓国社会は彼女たちの30代と40代と50代を描けないと思う。韓国社会で彼女たちは「生きている人」ではなかったため、「純潔」と「純粋」から外れた生涯を再現することはできないだろう。何よりもその時間のあいだ、彼女たちを沈黙させた「暴力」を、韓国社会が自ら告発することができるだろうか。
私は「日本軍慰安婦」問題の被害者が耐えてきた時間や、彼女たちと連帯してきた活動家たちの時間を分かることはできない。彼女たちの言葉に耳を傾け、彼女たちの書いた文を読んだが、やはり「私は分かることはできない」と思う。当事者以外では誰も分かることのできない時間であろう。私は推察できるということすら、とうてい言えない。しかし、私は私が「日本軍慰安婦」問題の当事者だと考える。「日本軍慰安婦」と呼ばれていた彼女たちが経験した暴力の加害と被害いずれにもつながっており、また彼女たちと連帯する社会的責任が私にあると考えるからだ。
沖縄のペ・ボンギさんが、本人の意志ではなく、ひとえに生き残るために仕方なく「日本軍慰安婦」だったという事実を明らかにしなければならなかった時、沖縄の住民たちは「あなたはつらい記憶を引き出して証言しなくていい。私たちが覚えている。私たちが証言する」と言った。記憶を通じて非可視化された存在を可視化するとき、記憶に対する責任と倫理的義務は誰にあるのだろうか。暴力の被害当事者にのみ証言の義務を強要し、その証言を通じてのみ存在を信じることができるという社会は、どのような社会だろうか。最も大きな被害を受けた人から少ない被害を受けた人に至るまで、その被害の程度によって当事者性の位階を定めることはできない。また、暴力の被害を受けた人だけが当事者性を持つわけでもないと思う。私たちみなが植民支配の暴力とその暴力の痕跡、そして性暴力の現実に対して何らかの当事者性を持っており、持たなければならない。当事者性の拡張を通じて私たちが記憶すると言うとき、暴力の後の沈黙を作り出した暴力も止めることができるだろう。
しかし、私たちは互いに異なる当事者性を持っており、この計り知れないほど多くの当事者性の違いを前に、慎重に近づいていかねばならない。暴力の被害を直接受けた人々の立場と、彼女たちのそばにずっといた活動家たちの立場をすべて分かるとは言えず、これを下手に裁断することはできない。この固有の違いに対して姿勢を低くし、”慎重に”近づくことができるだけだ。時には「あなたの苦痛を理解する」という言葉さえ暴力になることがあるからだ。イ・ヨンスさんの記者会見後、私はイ・ヨンスさんとユン・ミヒャンさんの時間を、そして挺対協と正義連の歴史を「分かっている」という多くの人々の言葉を聞いている。その言葉の中から、「日本軍慰安婦」と呼ばれていた彼女たちと連帯する者の当事者性を省察する、半世紀の沈黙を作った韓国社会の暴力を反省する声を、発見することはなかなかできなかった。「日本軍慰安婦」をめぐる言説の場の歴史は、50年間は沈黙の暴力で覆われた時間であり、その後30年間は他者化の暴力に覆われた時間だった。(続)