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[寄稿]軍慰安婦論争の倫理を考える

登録:2020-05-15 07:27 修正:2020-05-18 06:44

 7日、日本軍「慰安婦」被害者のイ・ヨンスさんが大邱(テグ)で単独記者会見を行った。女性人権活動家として感じる自負心、水曜集会の限界と教育の場の設立にかける希望、挺身隊と慰安婦の区別の重要性、後援金の使い道および情報共有の問題、ユン・ミヒャン国会議員当選者に対する愛憎など、答えるのが容易ではない内容が言及された。

 これに対して正義記憶連帯(正義連)のユン当選者や共に市民党などは、被害者の記憶の問題と(選挙での)公認に関連した背後説に言及し、実名が記された領収証まで公開した。保守メディアと野党は、被害者の論争的な問題提起を不正問題に縮小した。

 重要なのは、被害者の話に対する私たちの社会の選択的な聞き取り方式だ。「利用された」という訴えや被害者と活動家の関係に対する対立を、保守メディアは与党を揺さぶるのに利用する。運動団体は“高齢者”の誤解と背後説で非難し、進歩メディアは運動の名分の弱化を心配する。皆がファクトを主張する。しかし、他人の話、特に歴史的証言の聞き取りは、社会が受容できる話を選択する党派的行為だ。話に対する解釈は、聞き手の利害関係により再構成される。

 今回の会見の「意味」は、被害者がそのように言うしかないこれまでの軍慰安婦運動の状況に対する理解を促すところにある。私たちの社会は「私が女の体で死に物狂いで生きてきたが、なぜこのような悲しさを感じなければならないのですか」という被害者の叫びを聞こうとせず、被害者らしい被害者のみを要求する「2次加害」を真実攻防で覆い隠すかのようだ。

 故キム・ボクトンさんも生前にそのような点について似たような問題意識を吐露したことがある。「いつもした話、話してまた話して…テレビや新聞で口が痛くなるほど死ぬほど話をしても、その話はすべてどこかに行ってしまい、一言二言出てただ『キム・ボクトン慰安婦』『慰安婦のキム・ボクトンおばあさん』… これは(私が)慰安婦だと宣伝することにしかにならないじゃないか。違いますか?」(「私は生涯、情というものを与えたことがない」、ハンギョレ2014年2月22日付)。私は記者会見の形式を通じて触発されたイ・ヨンスさんの話が、故キム・ボクトンさんの主張と大きく違わないと思う。

 被害者の話なので無条件で正しいという意味ではない。会見の内容は、軍慰安婦運動に対する背景と固定観念、すなわち社会運動を巡る論争の困難さと、反日あるいは親日という二分法を壊さなければ理解は難しい。韓国社会は日本右翼を言い訳にして、この二つに対する介入を先送りしてきた。

 このような状況の中で、与野党、男性と女性、女性主義と国家主義などの立場により被害者の話は選別された。「騙され続けた」という主張は、この脈絡の中にある。

 今回の事態が重要である理由は、社会的弱者の声を聞く方法に対する全面的な省察を要求するからだ。問題を特定の団体と個人に押し付けたり、被害者と活動家の利害は衝突するという形の相対主義に寄りかかって逃げるのはやめよう。政府に登録申請をしていない被害者の存在、彼女たちの人生の意味を推し量ることができる議論の場を用意しなければならない。

 運動の“大義”が毀損されるのではないかと懸念する指摘が多い。非常に重要な話だ。ただし、社会運動は指向する価値に最善を尽くそうとする態度と努力であり、それ自体が時間と空間を超越した正しさではない。日本を意識した運動の大義を前面に出し、私たちの社会内部の多様性と成長を縫合してしまおうとするのは古い方式の政治だ。

 言葉の跡は消えて「親日勢力総攻勢」「正義連疑惑究明」という二つのフレームだけが乱舞する時、被害者は何を見たのだろうか。彼女たちは話すことができるだろうか。尊重されることができるだろうか。

//ハンギョレ新聞社

チョン・ユジン元同志社大学准教授(韓日関係専攻)(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/944943.html韓国語原文入力:2020-05-15 02:38
訳M.S

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