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[寄稿]新型コロナウイルス対策と政治

登録:2020-04-05 11:07 修正:2020-04-06 02:34

 新型コロナウイルス危機の中で、アルベール・カミュの小説、『ペスト』が世界的に売れている。この小説は、突然ペストが流行し、封鎖された都市の中での医師や官吏の必死の戦いを描いた物語である。主人公のリウー医師は次のように語っている。

「今度のこと(ペストの流行)は、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです。僕の場合には、つまり自分の職務を果たすことだと心得ています。」

 伝染病対策として政府は市民に集会やイベントの禁止や外出の制限などで協力を呼び掛ける。為政者が誠実無私に職務を果たしていると人々が感じるならば、自発的にルールを守り、社会を伝染病から守ろうとするだろう。民主政治の下では、誠実な為政者を選ぶのは国民の選択である。為政者に誠実を求める源は、人々の社会への帰属意識や貢献意欲である。

 危機対応の中では、どうしても行政府に強い権力が集中することはやむを得ない。ウイルス対策は常に戦争にたとえられる。戦いに勝つためには、リーダーに権力を集中し、果断に意思決定を行い、迅速に実行することが必要となる。情報技術が飛躍的に進歩した今日、個人の行動を追跡することもスマートフォンとビッグデータを使えば可能であり、権力の拡張は一層加速される。

 指導者にとって、危機は権力を拡張、持続するための格好の機会となる。ヒトラーの例を出すまでもなく、危機は為政者にとって権力批判を封じ込め、国民を従順にする麻薬のようなものである。政府が暴走し、個人の権利や自由を侵害しないようにするためにも、社会への参加意識が重要である。たとえ迅速な政策決定が必要であっても、記録の保存と情報公開、議会における説明、批判や異論を提起する自由はつねに確保されなければならない。その意味で、4月に韓国で議会選挙が行われ、与野党が自由に論争を行うことには大きな意味がある。議会や選挙における論争こそ、情報公開を確保するための絶好の機会となる。危機のさなかにも国民が思考停止に陥らず、野党の政府批判も自由に行われるのは、健全である。

 日本の場合、2020年夏にオリンピックが予定されていたことが、政府の危機対応をゆがめた。オリンピックは首相や東京都知事にとって大きな見せ場であり、オリンピック開催時まで権力の座にいたいという欲望を持つ。それ自体非難すべきことではないが、政治家たるものオリンピックで脚光を浴びることと伝染病蔓延の危機を収拾することとどちらが大事か、判断しなければならない。3月24日に安倍晋三首相は東京オリンピックを1年延期することを表明した。これは遅すぎる決断である。そして、オリンピック延期が発表された直後から、日本国内での新型コロナウイルス感染者は急増しはじめた。

オリンピックを予定通り開催するため、日本が安全であることを誇示するために感染者数を偽っていたかどうかわからない。しかし、政府がオリンピック開催にこだわっていた今年1月から3月前半までの間、中国や韓国という実例があるにもかかわらず、新型コロナウイルス対策が不十分だったことは明らかである。東京など大都市で感染者が急増しているにもかかわらず、医療のための基盤や資材は不足している。

 4月1日、国会での答弁で安倍首相は来年のオリンピックについて、「人類がウイルスに打ち勝った証しとしての大会になる。歴史的に極めて大切な大会だ」と述べた。この的外れの楽観に呆れるばかりである。ウイルスの脅威におののきながら、対策を必死で進めるのが政治家の務めである。

//ハンギョレ新聞社

山口二郎・法政大学法学科教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/935719.html韓国語原文入力:2020-04-05 18:20

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