去る9月22日、京都市で日高六郎先生を追悼する会が行われた。追悼するといっても、すこしも宗教臭いところのない、むしろ同窓会のような雰囲気の気さくな集まりであった。見たところ参加者は100名足らずだっただろうか?これは故人の存在の大きさから見て、かなり寂しいものと言わねばならない。もちろん、華美や誇大を好まれなかった日高先生らしいと言えば、そのとおりであるが。
私は近年、『日本リベラル派の頽落』を上梓し、日本社会は90年代半ば以降「長い反動期」にあること、その間、知識人、言論人、政党人を含む「日本リベラル派」が反動の流れに抵抗することもできないまま「頽落」し続けていることを指摘してきた。だが、私は高みに立って「日本リベラル派」を安易に断罪しているつもりはない。「日本リベラル派」の先輩世代にあたる知識人たち(日本ではふつう「戦後知識人」と称される)の言説は、私自身にとっても自己形成の土台の重要な一部をなしている。私もまた彼らの教え子の一人なのだ。以下にその方々の一部の名前を挙げておこう。振り返ってみて、若い日にこれらの人びとの謦咳に接することができたことはまことに幸いであった。
安江良介(1935年-1998年)氏は1972年から1988年まで岩波書店刊の雑誌「世界」編集長をつとめ、軍政時代の韓国民主化闘争の肉声を世界に伝える「韓国からの通信」を連載した。古在由重(こざい よししげ、1901年-1990年)氏は戦前二度、治安維持法違反で検挙された。回想記では、獄中で同房となった朝鮮人運動家への共感をつづっている。私の兄たちの救援運動にも心を寄せ、わが家を訪ねて母を慰めて下さるようなこともあった。加藤周一(1919年-2008年)氏の自伝的名著「羊の歌」は韓国でも翻訳刊行されている。晩年は日本国憲法の非戦条項(九条)を守る運動の先頭に立った。茨木のり子(1926年- 2006年)氏は、日本の戦後詩を牽引した代表的女性詩人である。独学で朝鮮語を学び韓国の詩を翻訳紹介した。氏が尹東柱を紹介したエッセーは日本の高校教科書にも採用された。
これら最良の人びとはいずれもすでに世を去った。最後に残っていた日高六郎先生もついに今年6月7日、京都市の老人施設で別世された。享年101歳であった。
ここに挙げた日本戦後知識人たちの名は現在の韓国の読者にはなじみが薄いかもしれない。いや、日本においても、この人々の記憶は年々急速に薄れていっている。それが「日本リベラル派の頽落」の原因であり結果でもある。今後日本社会はより悪い方向をたどるだろう。だが、日本に平和や民主主義へのわずかな希望が芽吹いた「戦後」と呼ばれる時代の記憶は、この人々の名とともに、今後も消し去ることはできないだろう。
ファシズムの心理学的起源を明らかにし、民主社会が採るべき対案を明らかにしようとしたエーリヒ・フロムの名著『自由からの逃走』は、私が生まれた1951年に日本で出版されている。その訳者が日高先生だった。先生は日本の植民地であった中国山東省の青島市に生まれ、1941年東京帝国大学文学部社会学科を卒業した。戦後は東京大学新聞研究所で教鞭をとりつつ、平和運動、市民運動に献身した。ベトナム戦争に反対し脱走米兵を援助する運動に参加し、1969年には東大紛争での機動隊導入に抗議して東京大学教授を辞職した。1976年から、京都の小さな私立大学教授に就任した。平和運動の一方、公害病問題や、韓国民主化連帯運動・政治犯救援運動にも力を注いだ。代表的市民運動家であった。いや、「運動家」という言葉の響きは日高先生にあまり似合っていない。むしろ「文化的指導者」とでも呼ぶべきであろう。
私が先生を直接に知ったのは1970年代末のことである。日高先生は当時、韓国の獄中にあった私の兄たちの救援運動にも尽力された。同じ京都にいたのに、私の気後れのため実際にお目にかかるまで数年かかったように記憶する。先生の周りにはいつも社会運動にかかわる老若さまざまな人々が集まっていた。みな個人的には良い人々だったが、私はこの人々と親しく交わることがうまくできなかった。私自身の気質の問題でもあり、また当時(維新独裁体制)の閉塞した空気が、日本に住む私にまで及んでいた結果ともいえる。
年月が経って兄たちも出獄し、東京に住居を移して「もの書き」になってから、日高先生に長いインタビューをさせてもらった。1996年のことである。先生は前年に『私の平和論―戦前から戦後へ』という著書を出されたばかりであった。いわゆる「慰安婦問題」をはじめとする日本の戦争責任、植民地支配責任がようやく広く注目され、一方では「新しい歴史教科書をつくる会」や「日本会議」など右派の動きが活発化し、今日まで続く「長い反動期」の起点となった時点と言える。そのインタビュー「〈国民〉をめぐって」は拙著「新しい普遍性へ」(韓国未翻訳)に収められている。
民主主義者・平和主義者としての日高先生の姿勢は戦争中から戦争直後を経て、つねに一貫していた。戦争末期、東京帝国大学の助手だった先生は軍属として海軍の技術研究所に在籍したが、そこで提出した意見書で、次のような所見を展開した。――世界の大勢は民主主義に向かっている。日本は植民地支配している朝鮮・台湾を放棄し、インド・インドネシア・フィリピンその他アジア諸国の完全独立を世界に要請すべきである。国内では言論・集会・結社などの自由と、8時間労働制などの改革を実現すべきである。……このような主張は戦後の民主主義改革を先取りするものであった。
当然、当時まだ20代の若手研究者が、このように公然と国策批判を行うことには非常な危険がともなった。研究所を解雇されると最前線に配属されて命を落とす危険があったのだ。しかし、この命がけの「所見」はもちろん上層部にとり入れられなかった。さらに不幸なことには、その時点で全体主義体制が極限に達していた日本社会には、政党、労働運動、学生運動、知識人など、このような政策を実行に移す主体がまったく存在しなかった。日高先生自身、それは「幻想的という以上に滑稽」な「非政治的な政治的主張」だったと回想している。
それでも与えられた絶望的な状況の中で、若き日高六郎が危険を冒して最大限の努力を試みたことは正しく評価されるべきだ。もちろん、その思考と行動には今日の眼から見て時代的制約性と問題とすべき疑問もある。それは、上記した「主体」不在という絶望的な状況で、天皇に「上からの変革」を期待すると述べている部分である。かつて私はこの疑問を直接、日高先生にぶつけたことがある。先生は苦い表情で「ドレイの言葉ですね」と漏らされたが、それ以上の説明はなかった。これは代表的戦後知識人である日高六郎が時代との格闘の中で抱えた未整理な思想的課題なのかもしれない。それを克服する仕事は、彼に続く後輩世代に課せられている。しかし、現実を見ると現代日本の「リベラル知識人」がこの問いを真摯に受け継いでいるようには思えないのである。
日高先生は常々、中国に生まれた自分を「植民者(コロン)」と自任され、その特権的生活の「快適さ」を、苦い罪責感とともに追想された。日本敗戦の時点で中国に150万人、朝鮮に70万人の日本人民間人が住んでいた。そのほとんどが敗戦後日本に引き揚げたが、大半はせいぜい引き揚げの苦労を被害者的に記憶しているものの、加害者・支配者としての存在形式を痛みとともに認識している者は多くない。日高先生の思想の根底には、この痛みの感覚があった。
先に述べた1996年のインタビューの際、日高先生の語られた言葉の中で、私の心に刻み込まれたものがある。多くの「植民者」と違って、先生には植民地側の人びとの心が見えているようです、その理由をどう考えますか、という質問に対する答え。「ぼくが子どものときから、貧困のどん底の中国人、いわゆる苦力(クーリー)と呼ばれる人たちを朝晩いつも見ていたということです。……このような不正は絶対に許せないと感じるようになった。最近は文化相対主義がはやり出し、ぼくも相対化してものを見ることを強調して、わりと頭はやわらかいほうだと思っています。しかし、この世には許してはならない不正義が存在しているという直覚は、やはり大切だと思いますね。」
温和でつねに紳士的な先生にしては意外なほど強い調子の言葉だった。
日本では反動期が20年以上におよび、憲法9条(非戦条項)の改廃さえ現実の問題となってきた。現代日本社会の人びとはいま、最後の戦後知識人・日高六郎の死を前に襟を正して、その遺志を継ぐべきである。