今回はパブロ・ネルーダについて書くつもりだが、どうしてもその前に短くても触れておかなければならないことがある。去る(2017年)12月16日、「慰安婦」制度被害者宋神道さんが亡くなった。1922年忠清南道論山生まれ。享年95歳であった。
16歳の時から7年間、中国大陸の日本軍慰安所を転々とし「性奴隷」の生活を強いられた。解放後、日本軍兵士とともに日本に帰還したが遺棄され、さまざまな差別を受けながら苦難の生活を送った。1993年に日本在住の被害者として唯一、日本政府を相手取って謝罪と補償を求める裁判を起こし、生存者証人として闘ってきたが、2003年最高裁判所において敗訴が確定した。
宋さんについて私は、「母を辱めるな」(日本での初出は1998年)という文章で語っている。この拙文に私は「(もと「慰安婦」ハルモニたちは)「金ほしさに騒ぎ出したのだと罵る者がおり、その野卑な罵声にうなずいている多くの者がいる。これは、いかなる世界であろうか」と書いた。20年後の今日、この罵声は日本においてますます野卑さを増している。2015年末に朴クネ政権と安倍政権の間で理不尽な「不可逆的解決」の合意が交わされ、いま韓国からの「見直し」や「追加措置」の呼びかけに対して日本政府は「1ミリ」も譲歩しないと豪語している。嘆かわしいのは日本国民多数も、このような政府の姿勢を歓迎していることだ。そんな殺伐とした雰囲気の中で、宋さんは世を去られた。冥福を祈る、などという気持に私はとてもなれない。ひたすらおのれの無力を詫びながら、野卑な勢力に最後まで抵抗することを心に銘ずることしかできない。この「勢力」には、虚偽の「和解」を説き、「12・28韓日合意」の既成事実化を図る人々も含まれる。
さて、宋神道さんについてはいずれまた詳しく述べる機会をつくるとして、いまはネルーダの話をしよう。
昨年末から年初にかけて、いつになく多く映画を観ることができた。「ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ」(The Price of Desire、2015年)「永遠のジャンゴ」(Django、2017年)「ジャコメッティ 最後の肖像」(Final Portrait、2017年)「新世紀 パリ・オペラ座」(L'Opera、2017年)、それに「ネルーダ 大いなる愛の逃亡者」(Neruda、2016年)などである。どれも、私として語りたいことの多い作品だった。だが、ここでは「ネルーダ」に絞って、思ったことを述べておきたい。
パブロ・ネルーダについて、詳しく説明する必要があるだろうか?私の世代の人間にとって彼は文句なしの著名人だが、若い世代にとってはそうではない。まして彼が活躍した時代の韓国は軍政期だったので、これは私の推測だが、「アカ」の詩人ネルーダについて知っている人はさほど多くないであろう。あるいは、たんに「アカ」としてのみ知られているかもしれない。
ネルーダはチリの詩人であり、外交官であった。1904年に生まれ、1973年、軍部クーデターの渦中、サンチャゴで死亡した。
ネルーダは外交官として赴任したスペインでフランコ派ファシストのクーデターと内戦を目の当たりにした。1945年にチリの上院議員に当選、同時に入党した共産党が1948年に非合法化されたため、アルゼンチンへ、さらにパリへと国外逃亡を余儀なくされた。この映画は、この時期の逃亡者ネルーダと彼を執拗に追跡する警察官ペルショノーに焦点を当てている。チリ辺境の寒村や雪に覆われるアンデス山脈の映像描写が際立って美しい。
チリの進歩勢力は1960年代末、親米反共の寡頭支配体制を打倒すべく、「人民連合」戦略を打ち出し、共産党は大統領予定候補にネルーダを指名した。しかし、ネルーダは社会党候補のサルバドル・アジェンデを統一候補にするため立候補を辞退。1970年の選挙でアジェンデは当選し、人民連合政権が誕生した。ネルーダはアジェンデ政権から駐仏大使に任命され、在任中の1971年にノーベル文学賞を受賞した。アジェンデ政権が目指したのは複数政党制を守りつつ銅鉱山など基幹産業の国有化や農地改革の徹底を推進して社会主義化を達成しようとすることであり、それを「社会主義へのチリの道」と称した。この「道」は当時の世界にあって多くの人々が共感し支持した美しい夢であった。
だがアメリカからの圧力が加えられ、右派による政権転覆工作が激化して、73年9月のピノチェト将軍率いる軍部クーデターが起こされた。大統領官邸で最後まで抵抗したアジェンデは戦死。「左翼狩り」の嵐の中、サッカースタジアムが臨時の政治犯収容所にされ、多くの市民が連行され、拷問された。数万人がチリ国外に亡命した。
クーデターの直後、ネルーダはピノチェトに対する抵抗運動を率いるためメキシコに亡命する準備を進めていたが軍人に自宅から連行され、持病の前立腺ガンが悪化して死亡したと伝えられてきた。だが2011年になって、彼の運転手と個人秘書を務めていた人物が、ネルーダ氏は亡くなる前、胸に不審な注射を打たれていたと主張し、毒殺疑惑が持ち上がり、2016年4月には彼の遺体を掘り返して毒殺の形跡を調査するに至った。結果として、毒殺と断定する根拠は得られなかったが疑惑は残ったままである。
だが、ネルーダの魅力はその「政治的正しさ」にのみあるのではない。この映画は、そのことを、うまく伝えている。
≪まるごとの女よ 肉のリンゴよ 月の火よ/濃い 海草の匂いよ 光に鍛えられた泥よ/どんな暗い明るみがその円柱の間に開いているのか/どんな古代の夜が 男の五感をうっとりさせるのか≫―「まるごとの女よ」『百の愛のソネット』
なんと直截で官能的な歌であることか。それがいまも人々の心を捉え続けている。映画監督ミゲル・リティンは1985年、戒厳令下のチリに潜入し、ネルーダが長く住んでいたイスラ・ネグラの家の跡を訪ねた。そこで彼が見たものは、詩人が死亡し家が放置されたあとも、新しい世代がひきも切らずその地を訪れている光景だった。ここを訪れた若い恋人たちは、家の囲いに落書きを残していく。その中の一つは言う。「愛は決して死なず。将軍よ、アジェンデとネルーダは生きている。1分の闇は我々を盲目にはしない。」
この記述が大げさではないことを、この映画が伝えている。ネルーダの詩がチリの民衆にもつ影響力、詩の偉大な力を。
この映画の優れた工夫は、ネルーダを追跡する警察官の語りにネルーダの詩が豊富に引用され、それによって警察官自身の複雑な内面が描かれ、やがて彼が自分の標的である詩人に魅了されていくという描写である。ギレルモ・カルデロンの脚本が素晴らしい。ネルーダをチリのコメディ俳優ルイス・ニェッコが、警察官をメキシコのガエル・ガルシア・ベルナルが見事に演じている。
ここに描かれるネルーダは道徳的に模範的な人物ではないし、英雄でもない。それどころか気まぐれで自分勝手な享楽主義者である。だが、その正義への愛、民衆への共感、なによりも権力を恐れない機知とユーモアが観る者に爽やかな印象を与える。ネルーダの2番目の妻デリアの魅力も遺憾なく表現されている。アルゼンチンの女優メルセデス・モラーンが演じた。彼女によってネルーダはロルカと知り合いピカソとの親交を深めた。ここには大西洋を挟んで新大陸とヨーロッパを往還する進歩的人々の文化圏のきわめて豊饒な広がりが示唆されている。
もうひとつ感心したことは、この映画の監督パブロ・ララインが1976年サンチャゴ生まれであるということだ。クーデターから3年後である。前述のリティン監督が亡命世代であるとすれば、ララインはクーデー以後の世代である。そのような新しい世代が、新鮮で自由な感覚を存分に盛り込みながら、同時にしっかりと歴史を継承しているのである。まるでいたずら好きの詩人があの世からよみがえって、「ざまあみろ、俺は生きているぞ!」とファシストに向かって舌を出しているかのようだ。
チリでこうした激烈な闘争と悲劇が進行していた同じ時、地球の裏側にある韓国でも相似形の現実が進行していた。朴チョンヒ政権が1972年10月に非常戒厳令を宣布、「維新体制」を確立したのである。私自身も1980年代半ば、韓国政治犯の解放を訴えるために訪れたカナダの地方都市で、チリ亡命者の家族だという少女に出遭ったことがある。その当時はクーデターから10年以上たっていたが、まだピノチェト政権が続いており、亡命者たちは帰国できない状況だったのだ。私と少女は言葉が通じず会話らしい会話もできなかったが、瞬時にお互いの境遇と心情を理解しあった。これほどかけ離れた場所でありながら、チリの歴史はわれわれのものでもある。ネルーダという存在はわれわれのものでもある。
韓国語原文入力:2018-02-01 18:05