去る3月下旬、4泊の慌ただしい日程でソウルを訪れた。今回の訪問の主な目的は最近出した著書「私のイタリア人文紀行」のブックトークに参加することである。同トークは、イタリア文化院の共催で、3月19日に行われた。自分の国とはいえ、日本に勤務先と住所のある私は、それほど頻繁に韓国に来ることはできない。したがって、私が韓国の社会や人々に抱く印象は不可避的に断片的なものでしかない。それは分かっているのだが、それでも人々の表情や口にする言葉の端々から、「春」の予兆のようなものを感じ、私の心もやや和んだ。これは必ずしも季節としての「春」だけではない。昨秋から今年初めにかけて高まっていた軍事的緊張の空気が、平昌オリンピックを経て緩和に方向を転じたことが大きく影響している。急速に南北首脳会談、米朝首脳会談の開催が決まり、この原稿を書いている今日から4日前、3月26日には、北の金正恩労働党委員長が電撃的に北京を訪問して習近平主席との首脳会談をもった。わずか数週間前には、予測できなかった急速な動きである。
もちろん、これをもって先行きを楽観することはできない。とくに米国のトランプ政権は、超タカ派のジョン・ボルトンを新しい補佐官に据えて、いっそう強硬な姿勢をとりつつ外交交渉に臨もうとしている。ひとつ間違えれば銃の引き金が引かれかねない、薄氷を踏むような日々がまだまだ続くだろう。文在寅政権の難しいかじ取りが続く。それでも、国民多数が一時的にでも厳しい緊張から解かれたことはよかった。この平和の空気をぜひとも大切に維持してほしい。
昨晩、日本のNHKテレビが放映したドキュメンタリーは、タレントの草彅剛とNHK解説委員の柳沢秀夫がソウル龍山の一隅にアパートを借りて住み、近隣の住民と交流する、という内容だった。日帝時代には日本人たちが住んだその地区には、6・25以後は失郷民たちが多く住み、いまは脱北者たちも住んでいる。柳沢は高齢の住民とマッコリの杯を交すうちに、湾岸戦争(1990-91年)を現地で取材した自身の記憶を語り、「絶対、戦争だけはイヤだ。ダメなんだよ」と涙を流した。いささか素朴すぎるとも思えるが、正直な姿だった。大切な素朴さである。万事にうたぐり深い私にも好感の持てるシーンだった。
「絶対、戦争だけはダメなんだ」この心情を多くの人がしっかりと持てたら、と思うのだが、現実はどうだろうか。戦争を経験していない世代はゲーム感覚で傍観していないか。それ以上に、目先の利益のために戦争の危機を煽る政治権力に追従してはいないか。それは、傷つき斃れる他者に対する無関心であるだけではない。すぐにも自己に跳ね返ってくる危険への無関心、つまり自分自身へのシニシズムでしかない。
イエメンでは「世界最悪」の人道危機が続いている。約800万人が飢餓状態にあるとされる。空爆、疾病、栄養不良などのため、子ども、老人、女性たちが次々に命を奪われている。「助けて!」と泣き叫んでいる人たちが、目の前にいるのだ。それは自分には無関係なことなのだろうか?
シリア内戦が勃発してから7年が経ったが、事態収束の見通しはたっていない。この間に数十万人の市民が生活を破壊され、命を奪われた。国連のグテレス事務総長は空爆の続くダマスカス近郊の東グータ地区の様子を「地上の地獄」と表現した。これは大げさなことばだろうか?
先述した「イタリア人文紀行」は2014年から4年間をかけて書き上げたものである。この4年間、世界はさらに悪くなった。朝鮮半島をとりまく東アジアは次の戦争の危機に脅かされている。いま、この地上に地獄は確実に存在する。私たちが束の間の平和を享受しているこの東アジアという場所も、明日は地獄に変ずるかもしれない。私はこの間、迫りくる危機を強く意識しながら、重い筆を進めてきた。
私は去る2000年、拙著『プリーモ・レーヴィへの旅』によって、東京のイタリア文化会館から「マルコ・ポーロ賞」という賞を頂戴した。民族的少数者であり、ファシズムの時代には差別と迫害の対象でもあったユダヤ系の知識人、プリーモ・レーヴィが、戦後のイタリアにおいて「文化的英雄」という評価を得たことは、明らかにイタリア社会が誇りにしてよいことだ。それはまた、啓蒙主義・人文主義の故郷であるイタリアの地で、幾多の困難を経ながらその善き伝統が守られてきたことの証左でもある。これは推測だが、日本における少数者である私にこのような賞を授与されたことは、少数者への激励と連帯、普遍的理性への確乎たる支持、そして世界的に拡散する不寛容への抵抗といった意味合いがあったのかもしれない。
しかし、日本やアメリカはもちろんのこと、イタリア社会においてすら現在、不寛容の空気が高潮している。3月の総選挙では移民排斥を唱える極右政党とポピュリズム政党が大量得票し、汚職などのため失脚していたベルルスコーニ元首相の政党も復権を果たした。人文主義は、その故郷イタリアにおいても重大な危機に瀕している。
今回の著書は、30代の若い日からイタリアに魅了されてきた私が、60代後半になってもう一度、今までの旅の跡をたどりながら、先達たちの苦悩や闘争に学びつつ、あれこれと「人文学」的省察を試みたものといえる。その省察の中には、「絶望的」と形容したくなるこの世界において、果たして人文学的精神(ヒューマニズム)は死に絶えてしまったのか、人文学的精神を今日という時代の要請に即して再建することは可能なのか、ほんとうに「人間」に絶望するしかないのか、そういう、ありきたりでもあるが重い問いが含まれている。
旅はローマに始まり、フェッラーラ、ボローニャ、トリノをめぐって、ミラノで終わった。ローマではミケランジェロの「ピエタ」に再会し、旅の終わりにミラノで、同じミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」にも再会した。ピエタに始まり、ピエタで終る旅であったともいえる。
ミケランジェロというと私たちは往々にしてあの雄々しく清々しいフィレンツェのダヴィデ像を思い浮かべ、そのイメージを作者自身に重ね合わせる。だが、若い日のミケランジェロは「みずからに娯楽を許さず、友人を求めず、若い娘に目もくれず、陰鬱寡黙で喧嘩早かった。」「人間嫌い」であり、性格はひねくれていた。
ミケランジェロの一生のあいだに、フィレンツェの政治体制は激変を重ね、苛烈な戦いが繰り返された。ミケランジェロの生涯はその60年にわたるイタリア戦争をそっくり包摂している。あの万能の巨人も「人間的弱さと小心な保身」の人であった。彼に戦乱を止める力などなかった。彼はひたすら大理石の塊をこつこつと削り、謎のような未完のピエタ像を残したのだ。【図版】
「ロンダニーニのピエタ」はミケランジェロ89年の生涯における最後の作品であり、未完である。ヴァチカンのピエタを含めて多くのピエタ像では母マリアが死せる子イエスを抱きかかえている。だが、この像では、母は背後から子を抱え上げている。死骸を墓穴から引き揚げている姿とも見える。
いまも世界各地に存在する「地獄」で、無数の母たちが、子の死骸を背後から抱き上げているのだ。人間は昔も今も、こんなにも愚かで無力である。世界をより良くすることに役立たなければ芸術に何の存在価値があるのか?
それでも、かりに芸術すらなかったとすれば、人間にどんな存在価値があるのか……無力な私はそうつぶやくのである。