「私は中途であきらめる人間ではない」。リチャード・ニクソンが政治的危機に処した時に言った言葉だ。
1952年、アイゼンハワーのランニングメイトとして共和党の副大統領候補になったニクソンは、不法政治資金疑惑にまきこまれ激しい辞退圧力を受けた。その時ニクソンが、潔白を主張して言った言葉が「私はあきらめる人間ではない」(I'm not a quitter)であった。米国でニクソンに優る執念の政治家は見当たらない。そうして持ちこたえ、39歳の若さで副大統領になった。1960年の大統領選挙でジョン・F・ケネディに敗北した後には、ひるむことなく再びカリフォルニア州知事に挑戦した。こうした権力に対する執着が、卓越した能力にもかかわらず政治家ニクソンの否定的イメージの拡散の一助となった。
三成洞(サムソンドン)の自宅に戻った朴槿恵(パク・クネ)前大統領が「時間はかかるだろうが真実は必ず明らかになる」と言った時、ニクソンのこの言葉を想起するのは必然だった。二人とも議会の弾劾訴追を受け、大統領職を辞めるその瞬間まで(ニクソンは上院の弾劾表決直前に自ら退き、朴槿恵氏は罷免された点は違うが)誤りを認めなかったという点ではよく似ている。朴前大統領の話は要するに「私はあきらめないで国民と戦う」という意味だ。
1974年8月、ニクソンは大統領辞任演説でこのように話した。「私は今まで一度も中途放棄をしたことがありません。しかし大統領として、私はアメリカの利益を最優先せざるをえません。それで明日正午を期して大統領職を辞任します。私は今回の決定に至るまで、その過程で生じたすべての傷を極めて遺憾に思います」
ニクソンはウォーターゲート事件とこれを隠そうとして国民に嘘をついた部分に関し「遺憾だ」(regret)と言っただけで、謝罪(apology)することはなかった。朴前大統領が「大統領としての使命を最後まで仕上げられず申し訳なく思う。このすべての結果は私が抱いて行く」と言ったことと違わない。それについて親朴議員が「その程度ならば憲法裁判所の決定を受け入れたのではないか。これ以上あれこれ言わずに検察の捜査を中止せよ」と要求するのは、まったくの糊塗に過ぎない。
ニクソンにより米国の大統領制は途方もない打撃を受けた。最大の不幸は、もはや国民が大統領と政府を信じなくなったということだ。政府と議会の信頼度は急落した。1960年代のジョン・F・ケネディのようにすべての国民から愛される大統領はその後は出てこなかった。今、トランプ時代を象徴する政治的不信と分裂の根はニクソンが国民を欺いたところから始まったと言っても間違いではない。
それでもニクソンは後に国民に申し訳ないと話した。辞任して3年が過ぎた1977年、デービッド・フロストとのインタビューにおいてであった。ニクソンは「私は友人と、国家と、わが政府システムと、そして公務員になろうとする多くの若者を失望させた。私は米国民の期待に応えられなかったし、これは私が一生背負って行かなければならない荷物だ。私の政治生命は終わった」と告白した。だが、朴前大統領が政治生命を自ら閉じて国民に謝る姿を見ることは難しそうだ。親朴議員が個人秘書を自任して、再び政治勢力化しようとしているのがその兆候だ。
1994年4月ニクソンが死亡した時、5人の前現職の大統領が葬式に参加したのは、米国民が彼の謝罪を受け入れたという意味だ。今、朴槿恵氏は国民に許される機会まで自ら遮断している。多くの人の怒りを呼び起こすこの行動が、朴槿恵氏には永く極めて不幸なことになるだろう。