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[寄稿]悪夢の時代

登録:2017-02-22 17:29 修正:2017-04-21 07:09
パブロピカソの「ゲルニカ」=の資料写真//ハンギョレ新聞社

 昨年から何回かにわたって、私はこの欄で、トランプ大統領誕生という「悪夢」の予兆を語った。それが今では「予兆」ではなく、現実になってしまった。日頃、何ごとにつけ悲観的に見る傾向の強い私だが、昨年11月の米大統領選開票まで、「まさか」「いくら何でも」という感覚を捨てきれなかった。人種差別主義者が、その本性を隠してではなく、もっとも下品な言葉で、露骨に本性をあらわしていたのである。それがマイナスになるどころか、むしろプラスとなって支持が集まった。「まさか」と思っていた私は、自らの「理性」や「常識」に裏切られた形である。

 ドナルド・トランプは選挙戦のキャンペーン中、障害のために身体が不自由なジャーナリストの動作をまねてみせて、あざ笑った。のちに、女優メリル・ストリープが1月8日のゴールデン・グローブ賞授賞式でのスピーチで、そのことを批判したのはさすがに立派だった。ストリープは述べた。「こうした衝動的な侮辱を公の舞台で権力のある人物が演じれば、それはすべての人々の生活に浸透します。なぜなら他の人々も同じことをしていいという、ある種の許可証を与えるからです。軽蔑は軽蔑を招き、暴力は暴力を駆り立てます」

 以前の私の常識では、身障者を嘲笑したこの一事のみをもってしても、トランプが辞任に追い込まれたとしても不思議はなかった。しかし、トランプはむしろ、ストリープを「ハリウッドでもっとも過大評価されている女優」とののしり、「ヒラリー・クリントンの『召使い』」とやゆしたのである。

 このやりとりを見物して、大多数ではないにせよ、かなりの数の一般人が、たんに面白がるか、むしろ、トランプ支持に傾いたようである。日本の「中立ヅラ」をした「知識人」の中にも、ストリープのような「エリート」の、「知的」な語りこそが「大衆」の反発を買うのだ、と解説してみせて得々としている者がいる。

 私は、このような「解説」を軽蔑する。

 下品で非人間的な言葉は、誰の発したものであれ、きびしく拒絶されなければならない。「エリート対大衆」という構図は、浅薄で悪意なつくり物である。ここには、「大衆」は知的でなく、自分の衝動的な欲望にのみ忠実であり、「エリート」たちの「知的」批判は現実政治にとって無力である、という(おそらく意図的な)偏見が仕掛けられている。この仕掛けはつねに権力者に有利だ。それにノセられてはならない。

 ここで「大衆」といわれているのは、人種的、性的差別意識を内面化した白人層のことである。「大衆」の中には進歩的な白人層もいるし、もちろん排斥の標的とされている移民・難民・少数民族・女性・障害者などがいるのである。

 実際にはいわゆる「エリート」の中に唾棄すべき差別者やファシストもいるように、いわゆる「大衆」の中に「寛容」「連帯」「共感」といった美徳を自然に実践している多くの人々がいる。分断線は「エリート」と「大衆」の間に存在するのではない。「寛容」と「不寛容」、「平等」と「差別」、「正義」と「不義」の間にあるのだ。

 昨年5月、私はこの欄に「善きアメリカ」というコラムを書いた。その時はまだ「予兆」だった「悪夢」がいまは現実となり、私たちはこれから長く悪夢の時代を生きることになる。ただし「善きアメリカ」はなお奮闘中である。全米に拡がったトランプへの抗議運動、批判の筆鋒をゆるめないマスコミ、「7ヶ国出身者入国禁止」を命じた大統領令に対する司法の停止命令等がそれである。

 「善きアメリカ」と「悪しきアメリカ」との闘争には長い歴史があり、それは今後も続くだろう。私たちがどの国の国民であれ、どちらの側に立つべきかは自明であろう。

 しかし、日本国民はどうだろうか? このコラムを書いている今日、世界「主要国」の首脳として真っ先に駆けつけた日本の安倍首相は親密な「個人的な関係」を築くためと称して、トランプとゴルフに興じている。記者会見でトランプ政権の難民・移民排斥政策について問われた安倍氏は、「内政問題」であるからとコメントを避け、トランプ支持の姿勢をあらわにした。それはそうであろう。日本は世界主要国のどの国よりも難民・移民を排除する国家であるから。

 安倍氏が強調したのは沖縄を犠牲にしつつ、中国と北朝鮮を仮想敵とする日米同盟の強化である。全世界で排外主義が台頭しているとき、すすんでその急先鋒をつとめているのだ。

 安倍氏に続いて、イスラエルのネタニヤフ首相の訪米が予定されている。かつて、日独伊三国同盟があった。いまは日米イ(イスラエル)三国同盟の時代なのか。パレスチナ人たちの苦難はますます深刻化するだろう。

 そんななか、「善きアメリカ」奮闘中を思わせるニュースが伝えられた。

 ニューヨーク近代美術館(MOMA)が、トランプ大統領に対する抗議の意思を込めて、入国禁止措置を受けた国々の芸術家の作品を展示しているという。「歓迎と自由という究極の価値が、この美術館と米国にとって不可欠であることをはっきりさせるために展示した」と解説文に記されている。

 MOMAといえば、ピカソの「ゲルニカ」が1939年から1981年まで「亡命」していたことで有名な美術館である。ピカソはフランコ派の内乱に抗議し、1937年パリ万博のスペイン共和国政府館のためにこの大作を制作した。内戦は結局共和国側の敗北に終わり、「ゲルニカ」はヨーロッパ各国を巡回したのち、アメリカに渡ってMOMAに展示された。「スペインの闘争は民衆と自由に対する反動への戦いである。芸術家としての私の全生涯は、この反動と芸術の死に抗する絶えざる闘争以外の何ものでもない」そう宣言したピカソは「スペインに共和国が戻るまで」この作品のスペイン返還を拒否した。

 フランコ軍を支援するナチ空軍がバスク地方の小さな村ゲルニカを無差別爆撃した1937年、アジアでは日中戦争が始まり南京大虐殺が繰り広げられた。「ゲルニカ」以後80年、人類は第二次世界大戦、ホロコースト、さらに幾多の戦争を経験した。「ゲルニカ」は教科書にこそ載っているが、それを描いたピカソの精神、その絵を泣きながら見つめた人々の心に、いまどれだけの人々が共感しているだろうか。

 芸術に戦争を抑止する力があるか、悪しき権力を打倒する力はあるか、疑問である。しかし、それは、いつどんな悪夢の時代にも寛容、連帯、共感を求める人間精神が生きていることを教えてくれる。

 トランプとその支持者(たとえば橋下元大阪市長)なら「ゲルニカ」を落書きと罵るだろう。芸術など「エリート」のゼイタク品だとうそぶくだろう。「大衆」はもっとわかりやすい娯楽を求めていると。この考えこそが大衆蔑視であり、反知性のきわみだ。かれらの言動を見て私は、闘技場でキリスト教徒(当時の被差別マイノリティ)を猛獣に食わせ、ローマ市民たちの供した古代ローマの支配者たちを想う。

 芸術にはまだなすべき仕事が残っている。「ゲルニカ」はまだ眠れない。

徐京植(ソギョンシク)東京経済大学教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2017-02-23 18:29

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/783942.html

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