今回は書物を紹介してみたい。現代日本の小説家・辺見庸の『1★9★3★7』である。すでに昨年、初版を読んでいたのだが、近々刊行される文庫版に「解説」を書くよう依頼されたため、あらためて精読したのである。
辺見庸は一言でいって、日本社会の異端児であり、反抗者である。1944年、宮城県石巻市生まれ。1970年、共同通信社に入り北京特派員、ハノイ支局長などを歴任した。1991年に『自動起床装置』で芥川賞を受賞。1994年には『もの食う人びと』を刊行している。その彼が、1937年という時に焦点を当てて、歴史的時間を往還しながら、「日本と日本人」を徹底的に解剖したのが本書である。その解剖のメスは、小林秀雄、梯明秀(かけはし・あきひで)、丸山眞男、小津安二郎ら戦後日本を代表する知識人たちから、自らの父や自分自身にまで容赦なく及ぶ。
私は解放(日本敗戦)6年後の1951年、日本の京都市にうまれ、いわゆる「戦後民主主義教育」を受けて育った。日本で生まれて65年余りになるが、ここ数年、自分は「日本と日本人」がわかっていなかったという思いが強い。安保法制の強行採決、沖縄の辺野古基地移転や原発再稼働の強行等、暗然とするほかない出来事が続いた昨年(2015年)は、日韓両政府合作による「慰安婦問題最終解決合意」劇で幕を閉じた。もちろん、これが真の「最終解決」になどなりうるはずもない。「恨(ハン)」は今後も層々と堆積するばかりであろう。私たちがかつて書物で学んだ「政治的反動」は、かつて学んだとおりの姿で目の前にやってきた。反動に対する無策や無気力もまた忠実に反復されている。反知性主義が勝ち誇るそのような中、私が目にしたわずかな書物のなかで、他の人に推薦したい1冊がこの『1★9★3★7』である。
本書に次のくだりがある。<「この驚くべき事態」はじつは、なんとなくそうなってしまったのではない。(中略)それはこんにちこのようになってしまったのではなく、わたし(たち)がずるずるとこんにちを「つくった」というべきではないのか。>
著者のこの問いかけに対し、それに匹敵しうる重みで応答する声は聞こえてこないか?それがついに聞かれないままであれば、日本社会は今日の「反動」に抗するすべもないままに、またしても破局へと押し流されるほかないであろう。だが本書初版刊行からおよそ1年、私はまだその「応答する声」を聞くことができないでいる。
1937年は日本の中国侵略戦争が本格的に始まった年であり、日本の本土では人々は戦勝気分に浮かれていたが、その年12月には「南京大虐殺」が繰り広げられた。辺見庸はこの「記憶」が集団的に消去される日本の危機的現状に果敢な抵抗を試みている。その重要な手がかりとなったのは、いまはほとんど忘れられようとしている「戦後文学」の代表的作家、堀田善衞(ほった・よしえ)の小説『時間』と、武田泰淳(たけだ・たいじゅん)の『汝の母を!』である。1955年に発表された堀田の作品は、主人公を中国人知識人に設定し、いわば他者である被害者側の視線から日本の侵略と虐殺を描いたものだ。主人公の見た「惨憺たるもの」は、たとえば次のように描写されている。
〈断首。断手。断肢。/野犬が裸の屍を食らうときには、必ず睾丸を先に食らい、それから腹部に及ぶ。人間もまた裸の屍をつつく場合には、まず性器を、ついで腹を切り裂く。/犬や猫は、食っての後に、行くべき道を知っている。けれども人間は、殺しての後に行くべき道を知らぬ。もしあるとすれば再び殺すみちを行くのみ。〉
武田の作品は堀田の「時間」より1年遅れて公表された。中国戦線で日本軍兵士たちが、捕えた中国人の母と息子に性行為を強要して見物して嘲笑した挙句、最後には二人とも焼き殺すという話である。武田自身の戦場体験が投影された作品である。辺見庸は将校として中国戦線に従軍した自らの父も、このような行為に手を染めたのではないかと疑っている。いや、ほとんどそのことを確信しているのである。
〈このひと(辺見の父)はなにをしてきたのだ。なにをみてきたのか。それらの疑問はけっきょく問いたださなかったわたしにも、不問に付すことで受傷を避ける狡いおもわくがどこかにあったのであり、ついに語ることのなかった父と、ついにじかには質さなかったわたしとは、おそらくは同罪なのだ。訊かないこと――かたらないこと。多くの場合、そこに戦後精神の怪しげな均衡が保たれていた。〉
そうだ。「かたらないこと」「質さないこと」によって日本の「戦後精神の怪しげな均衡」は保たれてきたのだ。あえて語ろうとするもの、質そうとするものは「スルー」(through)され孤立させられる。それが日本社会を成り立たせてきた。辺見庸は父の肖像を描くことによって、薄笑いの表皮に隠された戦後日本人の素顔を描いた。
大虐殺の余燼がくすぶり、血の匂いが消えやらぬ中で堀田や武田の文学が切り開こうとしたのは、他者の目で自己を見つめ、自律的な倫理的更生を目指す道であった。その道を歩もうと志した人々は、戦後の一時期、少数ながらたしかに存在していた。いまは雑草に覆われ地図からも消されようとしているこの道を、辺見庸という作家が辿ろうとしている。
〈いつだったか、まだ子どものころ、酔った父がとつじょ言ったことがある。静かな告白ではない。懺悔でもなかった。野蛮な怒気をふくんだ、かくしようもない、かくす気もない言述である。この記憶はまだ鮮やかだ。「朝鮮人はダメだ。あいつらは手でぶんなぐってもダメだ。スリッパで殴らないとダメなんだ……」。耳をうたぐった。発狂したのかと思った。…〉
「朝鮮人」である私には、平静な心でこのくだりを読むことが、できない。私自身が殴られたわけでもないのに、神経がこすり上げられたような痛みと嫌悪を感じる。韓国国内のみなさんはどうだろうか? 職場の同僚や近隣の住民、温厚で理性的にしかみえない人々の心の奥底にこの心理が巣くっていて、時ならず噴き出すのではないか。その予感に私はいつも身構えている。それが植民地支配ということであり、「朝鮮人」であるということなのだ。ここでの「朝鮮人」を「黒人」「インディアン」あるいは「女」などに置き換えてみれば、全世界的に拡散し、いまも克服されていない植民地主義の心性がよく見える。
考えてみれば、辺見庸の父が少数の例外であったはずはない。それは日本人と朝鮮人の間で日常化していた行為であった。日本は「文明化」をかかげて朝鮮を「併合」した後も、朝鮮において非文明的な刑罰である笞刑を残し、それを朝鮮人にだけ適用した(金東仁「笞刑」参照)。笞の一振りごとに、激痛と屈辱が朝鮮人の身体に文字どおり叩き込まれた。同時に、笞を振るう官憲やそれを傍観していた日本人植民者は、一振りごとに奴隷主の心性をおのれに叩き込んだのである。
「発狂したのか」というのなら、突然にではなく、「琉球処分」に始まり、日清・日露戦争を経て、アジア・太平洋戦争に至る近代史の始発点から「発狂」していたのだ。笞刑はその一例に過ぎない。しかも、戦後の日本人にはその歴史を骨身に沁みて省察し、「正気」に返る機会はあったのに、ことごとくその機会を「スルー」してきた。昨今の日本社会はますます「発狂」の度を深めている。すでに「在特会」など日本の排外主義者たちはそのことを意識的に実践しており、先日の都知事選では11万人以上の日本市民が彼らに投票した。その人々は「スリッパ」で私と私の同胞たちを殴っているのだ。
そんな中で、たとえたった一人でも、日本人作家のこのような作品に接することができたことは僥倖であった。まだ「正気」を保とうとしている人が辛うじて生き残っているしるしであるからだ。奴隷が叩き込まれた奴隷根性を克服することが困難なように、奴隷主が苦痛に満ちた自省の過程を経ずしてその心性を捨て去ることはきわめて困難であろう。日本社会に、そのような自省の必要を認識し、努力を惜しまない人々が存在することを私は知っている。しかし、その数は少なく、きわめて微力である。私はこの小文を、辺見庸という作家を韓国の人々に知ってもらいたくて書いた。それは「日本と日本人」がいかに救い難いかを嘆くためではない。辺見庸の作品に「希望」を見て自らを慰めるためではない。私たち朝鮮人が自らに叩き込まれた「奴隷根性」を自覚し、それを克服して植民地主義と闘い続けるためである。
韓国語原文入力:2016-11-03 18:23