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[寄稿] おろかもの之碑

登録:2017-02-06 01:05 修正:2017-02-06 06:34
おろかもの之碑=資料写真//ハンギョレ新聞社

 群馬県吾妻郡中之条町という田舎町に「おろかもの之碑」という碑がある。1961年に建てられたこの碑は、日本の侵略戦争に加担した人たちが米占領軍によって公職から追放されてから、戦争に協力した自分たちの過去を深く反省し、「おろかものの実在を後世に伝え再びこの過ちを犯すことなきをねがい」、自らの手で建てたものだ。この碑の裏面には、碑石を建てた趣旨とともに吾妻郡で公職追放を受けた83人の名前が刻まれている。彼らは自分が愚かだったという事実を後世に伝えるために、自分たちの名前を直接石に刻み込んだ。

 彼らは田舎の公務員や官営団体の支会長などで、A級戦犯になるほどの高位職とは程遠かった。平凡な田舎の村で日常的な業務を処理しながら、“些細な”戦争協力をしただけだ。しかし、彼らはそれを決して些細な問題だとは思っていなかった。1947年に施行された公職追放の対象になった彼らは、ほとんどの人たち同様、1951年に追放が解除されたが、彼らは公職追放が解除されたとして、自分たちが犯した過ちが許されたわけではないと考えた。彼らは、その後も公職に復帰せず、「吾妻会」という会を結成し、反省の気持ちを心に刻みながら、活動を続けた。しかし、何年か経って、このままでは自分たちの過ちや公職追放も世間から忘れ去られるかもしれないと思った彼らは、会の結成10周年になる1961年におろかもの之碑を建てた。

 戦後日本の平和運動がほとんど被害経験に基づいて始まったのとは異なり、彼らは自分たちの加害経験を公共の記憶にするため、「おろかもの」という“汚名”を実名とともに後世に残した。当初この碑が戦死者を祀った英霊殿(現大國魂神社)という神社の境内に建てられたのも、自分たちの愚かさによる犠牲者がまさに戦死者という意識からだった。しかし、遺族会はこの碑を快く思わなかった。「おろかもの」という言葉が戦死者を冒涜しているように見えるということだった。碑を建てた彼らは、自分たちが愚かで大切な息子を死なせたから、その反省の意味を込めてここに(碑を)建てたと説明したが、結局理解してもらえなかった。その後、碑は近くにある寺に移され、加害の記憶と被害の記憶は分離された。現在もその神社では戦死者を追悼する行事が開かれるが、おろかもの之碑が消えたその場所で、戦争に対する具体的な責任の問題は記憶されていない。再びそのような歴史が繰り返されることを防ぐ記憶の装置は、除去されたのだ。

藤井たけし・歴史問題研究所研究員//ハンギョレ新聞社

 この碑は、敗戦を契機に日本社会が根本的に変わることもできたという可能性を示している。現在、歴史的な岐路に立っている韓国社会に必要なのも、このような装置かも知れない。この暗たんとした社会を作り出した数多くの「おろかもの」を具体的な現場で記憶することこそが、政権ではなく、社会を変えるために必要な作業だ。学校、会社、官公庁や軍部隊など社会のいたるところに無数のおろかもの之碑が建てられ、この悲惨な時代をまともに記憶できるようになると、私たちはこの時代と決別できる一つの装置を保有できるようになる。

 もちろん「おろかもの」たちは簡単に認めて反省しようとしない可能性もある。おろかもの之碑を建てた彼らも敗戦と占領軍による追放という経験がなければ、自らの愚かさに気づかなかったはずだ。私たちは「おろかもの」たちが自ら碑石を建てるようになる状況を作り出せるだろうか。

藤井たけし・歴史問題研究所研究員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/781384.html 韓国語原文入力:2017-02-05 18:24
訳H.J(1566字)

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