3月28日から第2回セウォル号聴聞会が開かれる。昨年12月に開かれた1回目の聴聞会では、海上警察幹部のずうずうしさが確認され、これを見守っていた多くの人たちの怒りをかった。 「分からない」、「思い出せない」と言いながら、責任逃れに終始した彼らの姿は、捜査権のない特別調査委員会がいかなるものかを示すのに十分だった。強制力を持たない調査委員会にできるのは、調査を受ける者の良心に訴えることしかない。ところが、彼らにそのようなものがない場合はどうするのか。
人々が強力な力を求めることになるのは、まさにこのような瞬間だ。歴史を振り返ってみると、4・19学生革命直後、独裁政権を守るために殺人も厭わなかった人たちを審判する時もそうだった。民主主義と生命を蹂躙した人たちに軽い刑が宣告されると、本来の役目を果たしていない司法に多くの人が怒りを露わにし、決断を下せない張勉(チャンミョン)政権を非難した。その結果、特別裁判所が設置され、再審理が行われたが、確定判決が出る前に発生した5・16軍事クーデターにより機能が停止され、その機能は、軍部が新たに設置した革命裁判所に移管された。革命裁判所の審理は迅速で、死刑をはじめとする重刑が次々と宣告された。軍事クーデターがある程度受け入れられたのには、法と手続きを守ることから来る息苦しさを解消してくれた、このような力に対する支持もかなりの役割を果たした。しかし、そのような力が結局、何をもたらしたのか、私たちはすでによく知っている。
ここで、私たちは、あるジレンマに直面することになる。この社会の弊害を根絶するために責任というものを強調すればするほど、より強い力と、より徹底した監視を求めることになるというジレンマだ。そして、このような監視を意識すればするほど、人々は最小限の責任の範囲を超えるものについては、最初から関与を避けようとする。第1回目のセウォル号聴聞会の時も「船長が判断することだと思った」、「総指揮は本庁で行うため、やらなかった」というような発言が続いたが、このような態度を表現するのに無責任という言葉だけでは不十分だ。
以前にセウォル号裁判を記録した『セウォル号を記録する』という本を読んだときも、出動した海上警察123艇の艇長がセウォル号との交信を一度だけ試して、それ以上は何もしなかったという部分で、恐怖に近いものを感じた。自分はやるべきことをやったのに、それに応えなかったセウォル号の方が問題という、冷酷な態度が感じられたからだ。緊急事態でも、彼らは少なくとも「自分がやるべきこと」だけに関心を持って、その「責任」を果たすことだけを考えている。総体としての無責任を作り出すのは、むしろ、このような“責任意識”だ。
これは、セウォル号だけの問題ではない。最近、ソウル市鍾路(チョンノ)区毋岳(ムアク)洞の「(塀の外で)囚人の世話をする街」の再開発と関連し、住民と共に鍾路区庁を訪問した際に目撃したのも、自分に与えられた「責任」以外は何もしようとしない確固たる態度だった。細かい責任に分割されている公務員の世界では、再開発の問題のように、様々な利害関係や生活が絡み合った総体的な問題であるほど、対応するのが難しくなる。下級の担当者たちに言うと、自分の所管ではないという答えが返ってくるし、上級の担当者を尋ねると、なぜ自分に(そのようなことを)言うのかと反問される。このように責任者が行方不明になっている構造の中で、今日もセウォル号は、私たちを乗せて出港する。
もちろん、責任者たちにその責任を負わせることは必要だ。しかし、それは国家権力の強化のために利用される可能性もある。今、私たちは、権力の裏付けを必要とする“責任”とは異なる、連帯の言葉について考えなければならないようだ。責任者が消えた“無政府状態”は、その絶好の機会かもしれない。誰かが言った。 「他の世界というものは存在しない。他の生き方があるだけだ」と。
韓国語原文入力:2016-03-27 19:01