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[寄稿] 映画『国際市場』に描かれない解放

登録:2015-01-19 02:10 修正:2017-02-06 06:26

 今年は(日本の植民地支配からの)解放70周年である。振り返ってみると、10年前に解放60周年を迎えた2005年を前後にした時期にはニューライトを自任する人々が登場し、解放前後史の再解釈を大々的に行った。ニューライトと言えば、すぐに「親日美化」のようなイメージを思い浮かべる人が多いが、ニューライトが行った作業の核心は解放が持つ可能性を削ぎ落とすことだった。統一独立国家建設のための左右合作も、米ソ冷戦という国際情勢の中ではどうせ失敗に終わるはずの試みであり、弱小民族にできるのは米国に従うかそれともソ連に従うかを選択することだけだったと、彼らは言う。解放とは国際関係の中で与えられただけで、その国際関係の中で私たちが新しい社会を築き上げる可能性もなかったというのだ。

 冷戦の絶対的な規定性を浮き彫りにし、解放が持つ可能性を完全に排除しようとする傾向は、ニューライトと少し異なる立場の教学社の教科書でも繰り返された。ニューライトだけでなく、「李明朴槿恵(イ・ミョンバク前大統領とパク・クネ現大統領を合わせた造語)時代」の保守も、現代史の話では大韓民国の成功を常に強調するが、その奥底にはある悲観的な認識が横たわっている。米国を中心とした世界、つまりグローバル市場に編入されるのは拒否できない運命であり、「解放」なんて言うだけ無駄だということだ。他の世界はどうせ不可能だからだ。英国で新自由主義を導入する際、サッチャーもこう言ったではないか 。「代案はない」。

 映画『国際市場』が伝えるメッセージもまさにこれだ。興南(フンナム)撤収から始まる歴史叙事の中で、主人公はいつも家族のために自分を犠牲にして努力する人物として描かれるが、彼が苦労しながらもつらい道を選択する理由はいつも他の選択肢がないと思い込んでいるからだ。停戦協定の締結を知らせるラジオ放送が流れる中、幼い主人公が男の子に殴られるシーンは、彼が大韓民国のアレゴリーであることを端的に表しているが、その当時抵抗もせず殴られるだけだった彼はそれからも常に与えられた条件を素直に受け入れ、その中で最善を尽くす。

 彼にとって社会的な条件は自然条件同様、運命のように受け入れなければならない前提だ。この映画が韓国現代史を素材としながらも、1945年ではなく、1950年から始まる理由は、私たちが自らその条件を、その運命を変えられるという事実を忘れさせるためだ。「国際市場」のルールを受け入れ、自ら自分を労働力として売り出すように仕向けるためには、解放の記憶は邪魔になるだけだ。

 解放の瞬間とは、不動の自然法則のように見えた社会秩序が実際には恣意的で人為的なものであることを現す瞬間である。つまり、その瞬間から物事のようだった秩序が人々の姿として見え始めるのだ。そのような瞬間を削除した映画『国際市場』で具体性を帯びた人々の姿がほとんど見当たらないのは当然のことだろう。この映画で主人公が具体的な関係を結ぶ存在は親族以外友人が一人いるだけだが、その友人や主人公と結婚する女性についてさえもこの映画は多くのことを教えてくれない。彼らはどこまでも主人公の「友達」または「妻」として存在するだけであり、彼らにもあったはずの他の社会的な関係は完全に消されている。

藤井たけし歴史問題研究所研究室長。 //ハンギョレ新聞社

 社会的条件がまるで自然条件のように映るのもその社会を構成する人々の姿が見えないからだ。家族をテーマにしたかのように言われているが、実際、この映画の登場人物は主人公一人だけだ。そして危機に陥った主人公を助けてくれる韓国人の鉱山労働者や海兵隊が何の具体性もない抽象的な存在であるかのように、主人公の孤独は国によって捕獲される。孤独は決して解放に結びつかない。

藤井たけし歴史問題研究所研究室長(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015.01.18 18:44

https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/56/674116.html  訳H.J

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