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[寄稿]葦のように参加し続ける「慰安婦」水曜デモ

登録:2016-01-24 23:04 修正:2016-01-25 06:04

 年末以降、毎週水曜デモに出ている。しばらくの間、あまり行かなかったが、「12・28合意」以降、このまま手を拱いているわけにはいかなくなり、参加するようにしている。しかし、厳しい寒さに震えながら2時間ほどその場にいると、私はなぜここでこのようなことをしているのだろう、と疑問に思うこともある。何百人もの人々が毎週水曜日に集まっているが、皆はどのようなことを思いながら、この寒さを耐えているのだろうか?私だけが揺れ動いているのだろうか? 

 私の心中を察したかのように、水曜デモでは、毎回「岩のように」という歌が流れる。「どのような誘惑にもぶれない岩のように」生きてみようという内容のこの歌は、20年以上粘り強く続けられてきた水曜デモにはぴったりの曲かもしれない。ところが、この歌を聴くたびに、私はちょっとした違和感を覚える。どんな誘惑にも揺らがないことは、既にあるものを守り抜くためには重要だが、初めから揺らぐものがなければ、どのような運動も始まらないからだ。水曜デモに参加している人々のほとんども、はじめは「何らかの誘惑」に揺り動かされたからこそ、その場にいるのではなかろうか?私も「根の浅い葦」でなければ、「風に揺れて」慰安婦問題に関心を持つようになることはなかっただろう。

 日本では、水曜デモをはじめとする「慰安婦問題」に関連する運動を「反日民族主義」の表出と見る場合が多いが、そのような観点もまた運動に参加する人たちを一枚岩として捉えている。もちろん、実際の水曜デモでも、運動の主体を「国民」と言いながら、参加者が皆同じ見解を持っているかのように表現する場合が多いのは事実だ。「帝国の慰安婦」のような本に共感する人たちが存在する理由も、このような部分への拒否感が原因だろうし、私もそのような拒否感を覚えたりもする。その場に集まった様々な人々の気持ちを表わすのに、「国民」という言葉は、あまりにも窮屈だ。「売国」という言葉が、具体的に誰が誰を売ったのかという問いを覆い隠すように(だからこそ、韓日協定が「売国的」だったという批判は「我が国(韓国)」の経済成長という論理へと簡単に切り替えられる)、「国民」という言葉は、各自の出発点となる個々の位置と経験から人々を遠ざける。

 しかし、そのような点だけで水曜デモを評価するも、また、あまりにも性急な判断かもしれない。「岩のように」という歌がその硬直した歌詞にもかかわらず、長い間愛され続けた理由の一つは、その軽快なメロディーにある。この歌の内容には違和感を覚えるが、音に対する体の反応は(心とは)異なる。歌詞は岩になることを求めているが、そのメロディーは、私たちを揺れる葦にする。もちろんそのように、体が再び揺れ動くことがないように、振り付けという枠が設けられたりもするが、水曜デモで歌に合わせて軽く体を動かしている人たちの姿は、岩というよりは葦群落を連想させる。「岩のように」が持つ大衆性が決してその歌詞そのものに求められないように、水曜デモに集まった人々の存在は、表面に現れた「国民」のような修司に集約されない。

藤井たけし・歴史問題研究所研究員//ハンギョレ新聞社

 実際に揺れない岩のように構えているのは、日本政府の方だ。同じ岩同士がぶつかると、どうしても大きな岩の方が勝つ。今、私たちに必要なのは、むしろ葦のように戦うことかもしれない。流れない水は腐るように、揺れ動かない運動は死んだ運動になりやすい。いつも揺れ動いてこそ、新しくあり続けられるし、自分自身を岩だと信じている人たちを葦に変えることもできる。揺るがない岩は割れることもあるが、揺れる葦はむしろ折れない。

 揺らぎを隠そうとする時、人は孤独になる。どっしりと構えている岩はいつも一人だ。葦のように揺れることこそが「私たち」になる原動力だ。

藤井たけし・歴史問題研究所研究員(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2016-01-24 19:02

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/727595.html 訳H.J

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