1600年9月15日(陽暦10月21日)。日本の中部にある濃尾平野の関ヶ原に15万人余の兵力が集結した。 風前の灯のような運命の豊臣家紋のために立ち上がった石田三成の西軍8万4千余人と、天下取りの野心を具体化しつつあった徳川家康率いる東軍7万4千余人だった。 歴史はこの日を秀吉の死後に日本の運命を分けた「決定的な一日」として記憶している。
合戦が行われた日、東西4キロメートル、南北2キロメートルに及ぶ戦場は、濃い霧に包まれていた。 朝8時頃、霧が徐々に晴れると前方に怪しい動きが感知された。 これを確認するために西軍の主力だった宇喜多秀家の部隊が小規模部隊を前方に送り出す。 これに驚いた東軍の鉄砲射撃の音で戦争直前の重苦しい静寂が破られる。
日本人と韓国政治を論じるたびに話題にのぼるのは、韓国の大統領制と日本の議院内閣制の差異。 時には「選挙に負けたからと前職の大統領を死に追い込む殺伐たる政治文化をどう思うか」という「直球」を投げる人もいる。 そのたびに窮余の策で持ち出す話が関ヶ原の合戦だ。 「韓国では5年ごとに関ヶ原の戦いを行います。 血の雨が降りますね」
13日、韓国の総選挙結果に対して日本のメディアも多様な分析を出している。 相次いだ経済失政と教科書国定化など権威主義的な政策に失望した若年層と中道層が政権を審判したということだ。 もちろんその通りだ。 しかし歴史には「関ヶ原の勝者は家康」という一行には出てこないあまりにも多様な“ディテール”がある。
今回の戦闘で西軍である共に民主党の隊長はキム・ジョンインだった。 彼の判断は西軍の主力である石田隊、浮田隊(親盧・運動圏)だけでは戦争に勝てないということだった。 そこで戦闘に出はしたが明確な立場を定められなかった中道を攻略しなければならないと判断した。 そこで味方の猛将である島左近(チョン・チョンレ、イ・ヘチャン)のような人の首を切った。 これを通じて家康の背後に布陣した毛利秀元(中道)を動かそうとしたのだ。
東軍のセヌリ党では混迷が続いていた。 戦闘を控えて部隊が親朴と反朴に分かれた。 卑劣な内部虐殺も続いた。 しかし隊長は野戦では負けたことがないという“選挙の女王”ではないか。 セヌリ党は内紛が戦況全体に及ぼす悪影響を憂慮しながらも、いつもそうしてきたように勝利を疑わなかった。
決定的な要因は東軍と西軍の側面に布陣した安哲秀(アンチョルス)の存在だった。 彼は関ヶ原の運命を決めた小早川秀秋のような存在であった。 小早川は名目上は西軍だったが、戦闘が始まるや中央で少しずつ勝機を捉えていった西軍の側面に向かって駆け寄る。 この攻撃で西軍の最右翼として奮戦した大谷吉継隊が壊滅し、戦闘の勝敗が決まる。
もちろん、韓国の総選挙の結果は400余年前の関ヶ原と同じには流れていない。共に民主党は国民の党との湖南(全羅道地域)決戦では惨敗したが、セヌリ党と対抗した中央首都圏では大勝を手にした。 この結果については分析すべき内容があまりに多い。
日本のメディアは今回の選挙結果により日本軍「慰安婦」問題に対する12・28合意の履行が不透明になったと憂慮している。 日本が希望している韓日軍事情報保護協定(GSOMIA)の締結が難しくなったという指摘も出ている。 朴槿恵政権の対日政策、さらに外交・安保政策は修正を要求されている。 朴政権はおそらく今回の結果には納得できないだろうし、したがって対応しないだろう。 大統領選挙の結果が出るまで混迷は長期化するだろうと見る。