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[寄稿]メディアと権力

登録:2016-04-10 09:39 修正:2016-04-11 06:44

 日本では、この3月末をもって比較的独立的に、自由に政治についてコメントしてきたテレビニュースのキャスター、アンカーパーソンが3人も退任した。これは偶然だろうが、日本の言論状況を物語る出来事でもある。

 昨年夏の安保法制の制定について、憲法違反の疑いがあるとか、多くの市民が反対しているといった報道が行われることに、安倍晋三政権は神経を尖らせてきた。そして、報道機関は政治的中立性を保つよう、繰り返し要請してきた。さらに今年に入ってからは、高市早苗総務大臣が、総務省の監督下にある民間放送について、中立公平な報道をしないと判断されれば、電波停止命令を出すこともありうると発言した。「民間」では、安倍首相の応援団として活動してきた評論家、学者が、放送局に中立を旨とする放送法の順守を求めるという「市民」運動を展開している。

 一連のキャスターの交代は、こうした圧力の成果とみるしかない。もちろん、政府が放送局に直接特定のキャスターを下ろせと要求するということはありえない。そんなことをすれば、政府の責任が問われる。安倍政権はもっと巧妙である。一般論として中立的ではない放送をした放送局には免許停止や電波停止もありうるとほのめかす。すると、放送局の側は、政府との間で面倒を起こすことを避けるため、権力者の意向を察知し、政府批判の言論を自主規制することとなる。政府が抑圧した結果ではなく、放送局が「自主的」に判断した結果として、現政権の政策に批判的なキャスターは画面から消されるということになる。

 ここで問題となるのは、公平、中立の意味である。民主政治におけるメディアは、さらにメディアで発言する学者や評論家は、スポーツにおける審判のような役割を果たさなければならない。どんなに人気のあるチームの打撃でも、セーフはセーフ、アウトはアウトと事実に基づいて判定することが、公平な審判の仕事である。しかし、安倍政権は自らの政策をアウトと判定されることをことのほか嫌う。アウトをアウトと判定する独立した審判を圧迫しているのが、安倍政権である。

山口二郎・法政大学法学科教授 //ハンギョレ新聞社

 安倍政権は、公平の中身を権力者が決めると言いたいのだろうか。権力者は、言論の世界では批判を受ける被告人の立場に立つこともある。日本憲法学の泰斗、樋口陽一氏は、放送規制の問題に関して、何人も自分がかかわる事柄について審判になることはできないと述べた。為政者は言論の世界では一方の当事者である。裁きを受ける側が、裁く人を威嚇するなど、言語道断の所業である。

 かくいう私は、日本で政権交代を実現するために、あるいは二大政党政治を実現するために、常に自分の考えを正直に表明してきた。しかし、私は公平でありたいと努力してきた。私の場合、自分が支持する政党、政治家の誤りについて、容赦なく批判することが中立のあかしである。自分の見通しが間違っていたら、間違っていたと正直に言うことこそ、公平な態度である。先日、ある記者から、自民党の谷垣禎一幹事長が、政権交代を煽った学者の中で反省しているのは山口さんだけだとほめていましたよと言われた。自分の失敗を正直に認めたから誉められても、うれしくはない。

 それにしても、自民党の幹部が敵方のブレーンの言動について公平に評価できるなら、自民党には自由主義が残っているということだろう。自由民主党がその名に恥じない政党であるためには、言論の自由を確保しなければならない。言論の自由とは、権力を批判する自由が存在するかどうかで決まるのである。自分の間違いを率直に認めることこそ、中立、公平の基本である。

山口二郎・法政大学法学科教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2016-04-10 19:41

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/739060.html

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