今月3日、読売新聞は韓中日首脳会談を取り上げた社説で、韓日関係改善を阻んでいる原因は韓国側にあると決めつけた。 そして新たな関係設定を望むなら、韓国がソウル駐韓日本大使館前にある慰安婦像を撤去することから始めなければならないと主張した。
何を根拠に、勝手極まるこうした主張をするのか疑問を抱いたが、昨日(10日)付け読売新聞は、韓日首脳会談で安倍晋三首相が朴槿恵(パク・クネ)大統領に慰安婦像の撤去を要求したと報道した。 今日(11日)から韓日局長級会議が開かれ慰安婦問題を議論するという。 首脳会談でした話であり両首脳だけが知っていることであるはずなのに、韓国の国民は日本の新聞報道を通じて知り、安倍首相の主張に対する答が「イエス」だったか「ノー」だったか知る術がないから呆れる。
日本の立場ははっきりしている。 1965年に締結した韓日協定に両国の過去と関連したすべての問題は「完全かつ最終的に解決された」と明記されており、日帝36年の過去の問題はそれにより終結したため韓国に借りはないということだ。 ただし、国際的な世論を考慮して人道的見地から「アジア女性基金」を作り、民間が募金をして慰安婦61人に賠償をしたので、それで充分だという主張だ。 当時、韓国の民間団体が基金の名称や性格が曖昧で日本国家の責任を回避したことに対して問題を提起し、一部は受領を拒否して慰安婦問題は今に至った。
日本が常に根拠とする韓日協定とは何か。 現大統領の父親が1965年に締結した韓日協定を持ち出して「父が実現させたことを否定するのか」と圧迫しているようで不快極まりない。
1965年、大学の新入生だった私にとって大学は一日も気が休まらないデモの現場だった。 学校の正門には先輩学生が陣を敷いて座り、大学に進入するためこん棒と盾で武装した警察官と対峙した。 5・16(朴正煕<パク・チョンヒ>将軍の軍事クーデター)直後は学生と軍事政権との関係は穏やかだった。 すぐにも民政委譲をして軍は本来の立場に戻るとした公約を大多数の国民は信じたし、彼らが軍服から民間人の服に着替えて20年間独裁するとは予想できなかった。
1964年、韓日会談の屈辱的な内容が知らされると大学街に火がついた。 「韓日屈辱外交」、「第2の乙巳保護条約」として大学街は沸き立ち、すぐに戒厳令が宣言され学生たちが連行され、軍人が大学に進入したのが6・3事態だ。 そうした中で誕生したのが1965年の韓日協定である。 当時も韓日会談に反対すれば共産主義、すなわち北を利する行為だとして断罪された。
以前の李承晩(イ・スンマン)、張勉(チャン・ミョン)政権は共に米国の推奨で韓日会談を試みたが、韓国の要求は30億ドル程度であり、日本が受け入れなかったと伝えられている。 僅か8億ドル。 1965年の韓日協定で10年にわたって日本から受け取った金銭だ。 個人補償はなく国家次元の補償に替えた。 世界で何番目かに貧しく、春になれば端境期で飢えた腹を抱えて生きたその時期の8億ドルは相当の金額だったかも知れない。
その金が経済開発の種子になったし、別の見方をすれば韓国社会のインフラを構築できた母胎になっただろう。 しかし他方では独裁開始の種子にもなった。 後に知らされたことによれば、日本の民間企業を通じて韓国の与党である共和党に6600万ドルが流れたというので根拠は充分だ。
これが歴史だ。 歴史には両面がある。 正しいかどうかは別にして、そういう歴史的事実を正しく認識してこそ私たちは過ぎた歴史から何をすべきで何をしてはならないかを学ぶことができる。 日本が無遠慮に要求した慰安婦像の撤去から始めるならば、1965年政権次元で拙速に成された韓日協定の再現になり得る。 朴槿恵大統領は日本側に「被害者が受け入れ韓国国民が納得できる解決」でなければならないと言った。当然の言葉だ。ただ、それを誰が判断するのか心配にならざるをえない。 目を大きく見開き見守らなければならない。