「第20回釜山国際映画祭」と同じ時期、ソウルでは「第3回西大門区労働人権映画祭」が開かれた。 朴槿惠(パク・クネ)政権の労働市場構造改革の嵐が吹き荒れる中、労働人権について深く考えさせられる場として貴重な映画祭だった。観客一千万人を動員した商業映画のように広く知られてはいないが、あちこちに隠れている宝石のように輝く映画、『影の島』(キム・チョングン監督)、『不思議の国のサービス』(テ・ジュンシク監督)、『無労組サービス』(イ・ビョンギ監督)、『慰労工団』(イム・フンスン監督)、『生きる』(キム・ミレ監督)、『少数意見』(キム・ソンジェ監督)とまとめて出会うことができた。
最終日の『少数意見』の上映が終わり「観客との対話」に参加した。 原作者の作家ソン・アラム氏が釜山映画祭に行っているため私が“代打”で参加した。 もう一人の参加者はセウォル号犠牲者セヒのお父さん、イム・ジョンホ氏だった。 なぜ「龍山(ヨンサン)の惨事」を素材にした『少数意見』とセウォル号事件とを一つに括ったのだろうか? 二つの事件はともに国家システムが正常に作動していたら起きなかったでろう悲劇だったし、いまだに真実が明かされておらず、もしかしたら永遠に明かされないかも知れない。 そのため私たちに「国家とは何か?」という厳しい問いを投げかける共通点を持つからだと推察した。
私は何か発言する度に恥ずかしいほどに喉が詰まり涙が出たが、セヒのお父さんは実に達弁だった。 冗談を交えて観客を時に笑わせることもあった。 聴衆のいぶかしがる姿が目に映り、私は補足説明をした。
「セヒのお父さんはまるで活動家のように話が上手くて驚いたでしょ。実は民主労総金属労組の幹部だったんですよ。 46日間断食したユミンのお父さんのキム・ヨンオ氏も、それから生存生徒であるイェジンのお父さんのチャン・ドンウォン氏も、皆金属労組の組合員でした。 保守マスコミはこうした事実を取り上げて『やはり純粋な遺族ではなかった』と非難したけれど、むしろこれが当たり前の事です。 安山(アンサン)は代表的な労働者密集都市なんですから。 セウォル号事件が発生した日にも、私は安山労働大学の講義をしに檀園区に行っていました。 セウォル号事件は労働者の都市で労働者の家庭を襲った事件でもあります。 韓国社会のすべての事件が労働者と繋がらざるを得ないにもかかわらず、労働問題が排除されるのは決して正常な社会と見ることはできません」
それでも観客たちは依然として疑問が解けない雰囲気だった。 若い観客が隣りの友人に「娘を亡くした人が、どうしてあんなふうにしていられるのかしら」とささやくのが、唇の動きから読み取れた。セヒのお父さんが話している間、私は傍で次のような話をしなければならないと考え、準備した。
「セウォル号遺族の座り込み場には、ずっと泣いてばかりいる方もいらっしゃるし、何も言えずにいる方もいらっしゃるし、何か言う度にどっと泣き出す方もいらっしゃいます。 そんな遺族を力づけるのが、ほかでもないセヒのお父さんのような方々の役目です。 こんなふうに元気に耐える方々がいなかったら、遺族組織はおそらく崩れてしまったでしょう。 そんなふうに他の遺族たちをいつも力づけ、明るい雰囲気を維持する役目を引き受けているお父さんがいました。ある時そのお父さんが神父さんと一緒に座り込み場のテントの外に出たところで、神父さんが 『お辛いでしょうね』と一言声をかけたら、そのお父さんはほとんど爆発するように泣き崩れてしまいました。 他の遺族の前ではしんどいという姿を全く見せなかった彼が、その一言で泣き崩れる姿を見て、テントの中にいた人々は誰もが粛然としました」
絶対ぐっと込み上げたりしないように、この話をちゃんと伝えなければと心の中で練習していた時…横で総括する発言をしていたセヒのお父さんの声が急に震え始めた。 「転覆した船が目の前に見えました。 その中に間違いなくうちの子がいるのに…私には何もできなかったんです」
セヒのお父さんはついに泣き崩れてしまった。 映画館の中はしばらくの間、息をする音さえ聞こえないほどに静まり返っていた。
その晩に別れる時、セヒのお父さんイム・ジョンホ金属労組組合員“同志”は、自分の手首にはめていたセウォル号追慕の黄色いゴムの腕輪を外して私にくれた。 セウォル号事件の真実が糾明されるまで、色あせたその腕輪をずっとはめているつもりだ。