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[寄稿] 戦後70年を迎えて

登録:2015-08-17 06:58 修正:2015-08-17 07:58

 安倍晋三政権が推進する、憲法九条を事実上変更する内容を持つ安保法制が論議されている最中に迎える八月一五日には、とりわけ大きな意味がある。戦争を実際に知る世代がどんどん少なくなる中、十年ごとの区切りで戦後を振り返るのも七〇周年が最後となるだろう。新聞などに載る戦争世代の言葉からは、自分の経験を何としても残したいという執念を感じる。直接的な経験を持たない世代の中で、戦争の記憶を受け継ぐという難しい課題に我々は取り組まなければならない。

 戦後70年に関連して、テレビや新聞では太平洋戦争の中の日本政府の様々な決定を分析する特集を組んでいた。それらを見るにつけ、戦後の日本は愚かな戦争を進めた政治の誤りを克服できていないことを痛感させられた。

 たとえば、NHKが8月8日に放映した「NHKスペシャル 特攻、なぜ拡大したか」では、世界史上まれに見る残虐な作戦であった特攻作戦を当時の陸海軍の指導部がどのように進めたかを明らかにした。まず海軍が特攻で戦果を挙げ、陸軍がそれに対抗して作戦を拡大した。軍隊内部の官僚主義が多くの若者を犠牲にしたのである。戦争全体の中で特攻作戦が何をもたらすかの考察なしに、戦意を高揚するために敵方の被害がねつ造された。はては、速度の遅い練習機まで動員され、敵の餌食になった。しかも、若者を死地に追いやった指導者は戦後も生き残った。

 なんという無責任だろう。そして、この無責任の構造は戦後も生き残っている。たとえば原子力政策にもその一端を見出すことができる。福島第一原発の事故で十万を超える人々が故郷を追われ、生業を失った。しかし、政府は事故に関する徹底した真相究明も、安全対策を起こった経営者や官僚に対する責任追及もないまま、鹿児島県の8月11日川内原発を再稼働させた。

 戦争を反省するという時、侵略や植民地支配の犠牲になった人々やその子孫に詫びることは当然である。同時に、国策を誤った指導者の罪を明らかにし、それを繰り返さないという決意と覚悟を持つことも、反省に不可欠である。無責任体制を延命させたことへの悔しさや慙愧の念は私の中で高まるばかりである。

 内外の注目を集めた戦後70年談話の中で、安倍首相は一応侵略に対する反省の言葉を述べた。しかし、それは首相の本心でないことは明らかである。首相は村山談話を書き換えることへの強い意欲を表明していた。しかし、過去の戦争を正当化することは国際社会が許すことではないという現実を思い知り、不本意ながら軌道修正を迫られたというのが事の真相であろう。

山口二郎・法政大学法学科教授 //ハンギョレ新聞社

 ナショナリスト、歴史修正主義者として知られる稲田朋美・自民党政調会長は、侵略への謝罪について、いつまで謝り続けなければならないのかと不満を述べた。何とも皮肉な話である。稲田に代表される自己正当化が続く限り、日本は許されることはない。そして、いつまでも戦争について謝罪し続けなければならない。

 日本から未来志向を言い出すのは傲慢の極みである。過去の罪を真摯に反省し、被害者に対する償いを徹底して行うことで、日本の誠意が認められれば、おのずと未来志向という雰囲気が近隣の諸国からも湧きおこるだろう。戦後50年の村山談話から数年の間には、そうした兆しも現れていた。小渕首相と金大中大統領の努力で未来志向の日韓関係を構築しようとしたこともあった。安倍政権の下で時計の針は昔に戻った感がある。安倍政権の進める安保法制に反対する運動は、同時に、戦争の歴史を謙虚に反省し、近隣の国々との信頼を再構築する作業につながっていかなければならない。

山口二郎・法政大学法学科教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-08-16 16:33

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/704607.html

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