先月21日から22日にかけ、日本の本州最西端である山口県に行ってきた。 歴史に関心ある韓国人にこの地域について尋ねれば、迷うことなく朝鮮侵略の元凶に挙げられる伊藤博文(1841~1909)を思い起こすだろう。 明成(ミョンソン)皇后殺害事件を指揮した三浦梧楼(1847~1926)、初代朝鮮総督だった寺内正毅(1852~1919)、「利益線」という概念で朝鮮侵略の理論的な根拠を提供した日本陸軍の父の山県有朋(1838~1922)など、朝鮮と悪縁のある長州藩(現、山口県)出身者を挙げれば枚挙にいとまがない。 「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介(1896~1987)元首相もこの地の出身であり、彼の外孫である安倍晋三現首相の政治的根拠地も他でもない山口だ。
韓国人としてはどうにも忌まわしい感じを拭い去れないこの地域を訪ねたのは、日本全国で戦後補償問題解決のために活動している人々が年に一度結集する「強制動員真相究明ネットワーク」(以下、強制動員ネット)の集会に参加するためだった。行事を終えた後、朝鮮人136人が亡くなった県内宇部市の長生炭鉱水没事故(1942年)現場を見て回るフィールドワークのプログラムも準備されていた。
ここで最も深い印象を受けたのは、地域の市民団体である「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」が1993年から韓国人遺族たちを招請し、毎年追悼式を開いているという事実だった。 この団体は朝鮮人犠牲者の遺族をどのようにして捜し出したのだろうか。 事情を尋ねると、山口武信前代表(2015年死亡)たちが1990年に偶然に発見された長生炭鉱「集団渡航名簿」の名前と残された犠牲者の創氏名を対照してみたということだ。 すると20人の名前が一致した。 これを手がかりに韓国・日本の地方自治体の援助を受けて、韓国人遺族の住所地と推定される戸籍上の住所を確認し手紙を送った。 この過程を経て1992年に韓国遺族会が発足し、それから毎年大韓海峡を往来する交流が続いている。
よく似た事情を北海道でも聞いたことがある。 北海道の寺刹である一乗寺の住職である殿平善彦僧侶を中心にした市民団体が、地域のダム建設作業中に亡くなった朝鮮人の遺骨返還作業を進める時だった。 韓国人遺族たちの所在が確認できなかった市民団体は、地域に残っていた埋葬・火葬許可証に記されている韓国内の住所地に片端から手紙を送った。 その時も嘘のように韓国の遺族たちから感謝の気持ちを込めた返事が多数戻ってきた。
やや視野を広げてみれば、太平洋戦争被害者補償推進協議会が、1999年に事務室がなく街頭に居座ることになった時、彼らに事務室の賃貸費用60万円を支援したのも矢野秀喜「日韓つながり直しキャンペーン」事務局長を中心とする日本人たちだった。 韓国で「強制動員被害真相究明委員会」が発足すると、日本の市民団体がこれを支援しなければと強制動員ネットの発足を積極的に主張したのも福留範昭を中心にした九州地域の活動家たちだった。 このような肯定的な歴史も数え上げればおそらく切りが無いだろう。
解放70年になる今年、伊藤博文を記憶しなければならない理由はあまりにも明白だが、私たちがよく知らないまた別の日本の姿があるという事実も認識しなければならない。 その時にその日本人たちがいなかったなら、私たちが体験した強制動員被害の多くの真実は相変らず歴史の闇に包まれたままだったかもしれない。 自身が犯した暗い歴史を無視しなかった人々の勇気ある姿は、朴正煕政権時期に下された緊急措置は「高度な政治的行為」なので損害賠償の対象にはなりえないという韓国最高裁の詭弁と重なって奇妙な共鳴を残す。