「(日本の)戦後70周年、韓日国交正常化50年になる今年こそ、この問題を解決してもらいたい」
李鶴来(イ・ハンレ、90・写真)同進会会長は、ここ数年で気力が衰えた様子だった。左手にツエを持ち腰をまっすぐ伸ばして歩く姿は以前のままだったが、足取りが遅くなり、聡明そのものだった以前とは異なり、周辺の人を判別するのに困難を感じているようだった。
しかし、生涯をかけて解決を追求してきた韓国・朝鮮人BC級戦犯の話が出ると、別人のように変わった。 1日、東京の衆議院第2議員会館1階で開かれた「同進会結成60年記念行事」に参加したイ会長は、現場に設置された43枚のパネルを一つひとつまわり、問題解決の必要性を熱心に説明しようと努めた。 パネルには1910年の日本による強制併合から1942年5月の日本の捕虜監視員募集、その後、連合軍の戦犯裁判で有罪判決を受けた朝鮮人BC級戦犯の歴史が一目瞭然に整理されていた。
朝鮮人BC級戦犯問題は、1941年12月に太平洋戦争を起こした日本が東南アジア戦線で破竹の勝利を収めたことから始まった。 日本政府はこの過程で捕えた多くの連合軍捕虜を監視するために、朝鮮人青年(3012人)を動員した。 日本が起こした戦争で、最末端の道具として利用された人々のうち、イ会長ら129人が連合軍の戦犯裁判で捕虜虐待容疑で有罪判決を受けた。 このうち23人は死刑判決を受け、刑場の露と消えた。
懲役刑を受けて出所した人々を待っていたのは“戦犯”または“親日派”という社会の冷たい視線だった。 彼らは1952年4月にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本国籍が剥奪されたために日本人軍人・軍属に支給された援護法、恩給法などの支給対象から除外された。
この過程で、ホ・ヨン(1955年)とヤン・ウォルソン(1956年)の2人が生活苦に耐えられず自ら命を絶った。 一生を通じてBC級戦犯の問題を研究してきた同進会を応援する会の内海愛子代表は「日本政府は彼らが処罰される時には日本人として扱い、(援護などの問題では)便宜的に朝鮮人扱いをするなど、つじつまの合わない対応をしてきた」と指摘した。
それを見るに見かねた人々が1955年4月、当時日本の戦犯が収容されていた東京池袋の巣鴨刑務所で同進会を結成し、今日で60年に至っている。 彼らは2008年5月、被害者または遺族一人に300万円の補償的性格の特別交付金を支給せよという法案を作り、日本の国会に提出しもしたが、2009年7月に国会が解散し法案は廃案された。
韓国政府は2006年6月、彼らを強制動員被害者として認定し、名誉回復措置は取ったが日本政府を相手にこの問題の解決のための外交的努力を怠っているという理由で昨年10月憲法訴訟を提起されている。
横路孝弘議員(民主党)は「この問題は日本が法案を作り解決しなければ解決できない。 李鶴来会長が元気なうちにこの問題が解決されるよう、与野党の協力を得て再度法案を提出したい」と話した。