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[コラム]告別煙…45年吸ったたばこをやめた理由

登録:2015-01-23 00:49 修正:2015-01-23 09:00
兪弘濬明知大美術史学科客員教授。 //ハンギョレ新聞社

 今年たばこをやめた。値上がりするからでも、健康が悪くなったからでもない。世間でたばこを吸う人を未開人でも見るようになり、たばこを吸う所もなく、ごみ箱の脇や毒ガス室のような喫煙室で吸っていると、佗びしくて哀しくて汚らしいからやめたのだ。さようなら、たばこよ。これまでどうもありがとう。私の煙茶よ。

 新年に入って私もたばこをやめた。 まだ禁煙に成功したと大言壮語する訳には行かないが、今のところ吸っていない。 昨年の大晦日の夜、最後のたばこを一本吸って、これが告別煙だと考えると寂しい思いが身をかきむしった。

 私はたばこを吸って45年になる。 200年前、私と同根の兪氏夫人は17年間使い続けた針が折れると、これを哀悼する「弔針文」という文を残したように一生を共にしてきたこの嗜好品と決別しようとすると深い感慨が湧く。

 たばこの害毒は否定しないが、純粋機能もないわけではない。 昔の映画を見れば職場でも、公園でも、戦場でも休息の象徴はたばこだった。 文を書いてペンが止まる時、たばこを一本咥えてしばし思索に浸るのは大きな慰めだった。 特にため息がひとりでに出てくる状況ではたばこが薬だ。 鄭喜成(チョン・ヒソン)は『同年一行』でこう詠じた。

<苦しみの絶えなかった男 純粋というより純真と言うべきだった ナムジュは亡くなり ソウルの空気が息苦しいからと 安山に行って暮したキム・ミョンスは さらに奥に入って菜田を育てたと言うが ふらっと出かけて ちょっとお寺の境内でも掃きたくなった私は 遠くへは行けなくて ベランダに出てたばこでも吸う>

 また、ある者はこう言う。戦わずしては生きられなかったし、酒がなければ寝つくこともできなかったあの暗黒の時期に、たばこまでなかったとすればその苦しい歳月をどのように耐えられただろうと。 維新時期に監獄から出所したある民主人士は外界が監獄と違うのは、たばこを吸える自由があることだけだと言った。

 たばこは人との間を近くしてくれる。 ライターが貴重だった時期、他人のたばこの火を借りて火を点ける姿は、人の暮らしのにおいを感じさせる。…

 『8・15解放詩集』に載せられた李庸岳(イ・ヨンアク)の「田舎者の歌」は、各々の事情を抱いて故郷へ戻る夜汽車の中で「何処へと向かう人々が 互いにたばこの火を借りたり貸したりしながら 私の胸をよぎるのだろうか」と沈黙の中で行き来する温情を描いた。

 事実、私は20年前に『私の文化遺産踏査記』二巻を出したばこをやめた。そんな私が4年後に再びたばこを吸うようになったのは、1997年『北朝鮮文化遺産踏査記』のために北朝鮮を訪問してからであった。

 北の人々は会えば先ずたばこを薦めた。 その度に私は断って遠慮した。 せっかく親善関係を結ぶために訪ねて行きながら、断るのがぎこちなく、彼らは私をくそまじめな人間と思ったようだった。

 それで二回目の北朝鮮訪問の途についたとき、たばこをたっぷり買って行ってプレゼントし、彼らが“白頭山(ペクトゥサン)”たばこを薦めてくれば、私は韓国の“漢拏山(ハルラサン)”たばこで応じた。しかし吸わずにそぶりだけを見せた。

 そうしているうちに夢にも思い描いた白頭山の頂上に上って、神秘的な天池をぼうっと眺めていると、北の案内員がやって来て「教授先生、白頭山の頂上では“白頭山”たばこが合うのではないでしょうか」と言って薦めるのだった。

 私はこの瞬間でも吸わないならば、それは感性の動物である人間ではないと考えて、たばこを受け取って火を点けた。 クラクラしたり拒否感が起きればすぐに捨てるつもりだった。 ところが、まずかろう筈がなかった。天池がより一層恍惚として見えた。 以後、私は再びたばこを吸うようになった。

 90年代末には輸入たばこが一般化したが、外国たばこには手が伸びなかった。 ぴったり口に合うものがなくてあれこれ吸っては見たが、2003年頃に“クラウド ナイン”が出てきた。

 私はたばこだけはコンビニでは買わなかった。地下鉄安国(アングク)駅入口の露店では私の母よりはるかに高齢に見えるおばあさんが店を見ていた。おばあさんは私を見れば常連客に送る親し気な目礼をしてくれた。

 そんなある日たばこを買いに行ったところ、おばあさんが新しく出てきたたばこだと言って、いったいどう読むのかと尋ねた。

 「クラウド ナインですね。これって国産ですか?」「そうみたいです。今日置いて行きました。でも名前が横文字で、こんなに長いと覚えられない」「それじゃあ“クニルナヨ(大変なことになります)”と覚えてください」

 それ以来、告別煙まで私が吸ったたばこは“クニルナヨ”だった。私が文化財庁長だった時、大統領記録室から電話がかかってきた。「大統領が庁長さんと夕食をした後にたばこを変えられたが何かあったのか」とのことだった。

 盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は途方もない愛煙家だった。 食事をすれば、たばこを2本続けざまに吸うということだった。そっと見ると、大統領はタールが1.0ミリグラムの“エッセ”を吸われていた。 そこで私が5.0ミリグラムの“クラウド ナイン”を一度吸ってみるよう薦めたところ、美味しいと言って尋ねた。

 「これ、どこ製ですか?」 「国産です」 「クラウド ナインはどういう意味ですか?」 「俗語で“いい気持ちになった”という意味だそうです」 「そんな名前を付けてもいいのですか?」 「外国に輸出する関係で刺激的な名前が必要だったのかもしれません」

 あにはからんや、このたばこの名前は麻薬常習者の卑俗語だと非難されたこともあったという。 そこで私は、たばこ&ニンジン公社の役員に会った時、クラウド ナインは九つの雲という意味で、これはハングル小説の『九雲夢』から取った名前だと言い逃れろと教えた。

 たばこが韓国に入ってきたのは17世紀で『朝鮮王朝実録』には光海君の時からたばこの話が出て来る。 たばことはtabaccoから出た言葉で、昔は煙草と言った。 以後、多くの愛煙家を生み英祖の時、ホ・ピルという文人は号を烟客とし、李※(イ・オク ※は金篇に玉)は烟経という著書を書きもした。 煙草は煙茶という魅力的な名でも呼ばれた。 緑茶、紅茶と同じく茶と呼ばれたのだ。

 葦滄呉世昌(オ・セチャン)先生が昔の名人の手紙を集めて構成した『槿墨(クンムク)』に載せられた正祖大王の簡札(簡紙に書かれた手紙)は、臣下に「蟹の味噌漬け(ケジャン)一壷と昌徳宮(チャンドックン)で栽培した煙茶二袋を送る」という目録が書かれている。 臣下を大切にした正祖大王のきめ細かい姿と共に、煙草に労りと暖かい情をこめた内容だ。

 10年ほど前から私は毎月最後の日曜日に曹渓寺(チョゲサ)のセミナー室で開かれる“末日破草会”で昔の人の簡札を読む。 この時、休憩時間になると チェワン、チェシクと外に出て、松の木の下で煙茶を吸った。私たちはこの親しい出会いを“松下煙茶会”と呼んだ。 それで、この頃世の中では血縁、地縁、学縁よりさらに親密なのが喫煙の間柄だという。

 こんなに好きなのに私がたばこをやめた理由は、たばこの値段が上がるからでもなく、健康が悪くなったからでもない。世間がたばこを吸う人を未開人でも見るように見て、公共の敵に追い立てることが気分が悪く、家でも外でも道でもたばこを吸える所がなくて、ごみ箱の脇や毒ガス室のような喫煙室で吸っていれば、佗びしくて哀しくて汚らしくてやめたのだ。

 実を言えば、たばこのやめ時でもあった。 洪萬選(ホン・マンソン)の『山林経済』を読むと、人生の楽しみを順に数え上げた“人生楽”の最後に弄孫楽が出てくる。 孫と遊ぶ弄孫楽を得ようとすれば禁煙する他はないのだ。

 禁煙は本当に大変だ。チャールズ・ディケンズは逆説的に言った。 「たばこをやめることはとても容易なことだ。私は百回以上もやめたから」。

 20年前の経験によれば、禁煙には冷酷に決別する意志しかない。 禁煙後にやってくる喜びを期待してやめなければならない。 もう毎朝ゲェーゲェーと喉を搾ることもなくなり、歯磨きする度に出てきた貝の剥き身ほどの痰も出なくなるだろう。部屋からは黴臭さが消え、顔の肉が柔らかくなり皮膚も澄んでくるだろう。

 このように精一杯慰めてはみるものの、相変らずたばこが嫌いにはなれない。むしろ私の人生の永い友人になってくれたことに深く感謝しているし、強制的に離婚された気がする。 私は告別煙を吐いて、骨までしみる名残惜しさの中で別れを告げた。さようなら、たばこよ。これまでどうもありがとう。私の煙茶よ。

兪弘濬(ユ・ホンジュン)明知大学美術史学科客員教授

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/674807.html 韓国語原文入力:2015/01/22 20:25
訳J.S(3774字)

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