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[コラム] 原発誘致反対の三陟市住民投票は民主主義の発現

登録:2014-11-06 20:35 修正:2014-11-07 07:41

 権力分散のための改憲に劣らず至急に必要なのは、どのように民主主義を生かし、民衆権力を強化するかを考えることだ。 国民発議権と国民召還制などを導入し、比例代表制拡大のための選挙制度革新が緊急だと言える。 そうしない限り、大多数の国民が政治から疎外される寡頭支配体制は続くだろう。

キム・ジョンチョル『緑色評論』発行人//ハンギョレ新聞社

 10月初め、三陟(サムチョク)で原発誘致問題を巡り実施された住民投票は、この国の民主主義の歴史においてかなり重大な意義を持つ事件として記録されるに値する。 この住民投票は、三陟地域(結局は我が国全体)の長年の懸案を最も合理的に解決する方法であり、同時に現在急速に衰退している民主主義を回復させる可能性をはっきりと見せてくれた。

 それでも不思議なことに、マスコミはこの重要な事件に特別な注意を注いでいない。 保守の主流マスコミは言うまでもないが、非主流の ‘進歩’ メディアもこの問題の政治的・歴史的重要性を深く認識していないように見える。 今日、私たちが個人的であれ社会的であれ体験している苦痛の大部分が、本質的に執権勢力による民主主義のき損という問題と直結していることを考えれば、非主流メディアのこのような ‘無関心’ は甚だ遺憾といわざるをえない。

 しかし、最も嘆かわしい(あるいは滑稽な)ことは政府の態度だ。 原子力拡大政策を止めるつもりのない政府が、三陟住民投票に友好的でないということは初めから明らかだった。 だが、いくら気に入らないとしても、国家的威信を考えるならば公明正大な姿勢を取るのが当然だ。 ところが、政府は原子力発電所建設問題は ‘国家事務’ なので住民投票の対象にはならないという奇怪な論理を掲げて三陟市議会が全員一致で決議した住民投票を拒否し、市民の自発的な力でようやく実現した住民投票の結果を受け入れないという頑迷な立場を維持している。

 もちろん、私たちは原発拡大政策を推進し続けようとする政府の施策が果たして正しいことかを先に問い詰めなければならない。 しかし、それに劣らず、あるいはそれ以上に、問い詰めなければならないことは住民投票に対する政府あるいは執権勢力の基本姿勢だ。 地域議会が全員一致で決め、地域住民たちがあらゆる費用を自弁して成し遂げた住民投票を、極めて形式的な法手続きを前面に出して不法視しその結果を受け入れないと強弁するのは、果たしてこの政府が憲法を尊重する政府なのかを根本的に問わざるをえなくする。 大韓民国はあくまでも主権は国民にあることを明らかにしている憲法に基づく国だ。 それなら国家あるいは地域の重大事に関する最終的な意志決定権は誰にあるのか、自明なことではないのか?

 原発建設問題は ‘国家事務’ だと政府は言う。 ところで、そのような ‘国家事務’ が地域住民の暮らしに重大な影響を及ぼすことが明らかなら、どうして地域住民の意見は無視しても良いということになるのか? 今回のことに関連して、もう一つ必ず指摘しなければならないことは、選挙管理委員会の職務遺棄的姿勢だ。 選挙管理委員会とは、民主主義を守るという名分で存在する国家機関だ。 ところが、三陟選管委は自身の権限事項なのに、市議会が決議した住民投票実施が合法的なことか否かを中央政府の判断にゆだねるという非常に無責任で拙劣な態度を見せてくれた。 そうすることで選管委というものも結局は執権勢力の利害関係により動く極めてつまらない御用機関であることを自ら告白した格好になってしまった。

 三陟住民投票に対する政府と国家機関の反応を見れば、大韓民国が果たして民主共和国と呼べる国なのか、なぜこのようになったのか、悲しい思いを禁じ得ない。そして、このように国家権力自身は憲法と民主主義を根本的に否定しておきながら、何を根拠に法治国家云々して国民に法を守れというのか?

 おそらくそれは、自分たちが選挙を通じて選出された合法的権力だと考えているためだろう。 代議制民主主義とは、一時的に国家運営の責任を国民の代表者(たち)に預けておく政治システムだ。 したがって、選出された代表らは ‘自由で公正な’ 選挙を経た以上、自分たちの権力行使は ‘民主的正当性’ に立っていると信じているのだろう。

 しかし、よく考えてみよう。 果たして今日の選挙が本当に ‘自由で公正な’ 選挙だと言えるか? 不幸にも、私たちは今選挙というものが事実上既得権勢力の永久執権を可能にする単なる形式的メカニズムに過ぎないということをあまりにもよく知っている。 このようになるのは当然だ。 なぜなら概して選挙というものは関連情報を十分に熟知した有権者の理性的な判断に基づいた投票でなされるわけではないためだ。

 今日の政治は一言で言えば ‘劇場政治’ だ。 すなわち、有権者の判断はほとんどがメディアを通じてしばしば接した顔と彼らのイメージによって左右されやすい。 したがってイメージ操縦に長けている者、すなわち既成の権力機構とメディアを掌握している既得権勢力は-明白な不正を犯さずとも-選挙戦をいくらでも自分たちに有利な方向に導いて行ける。 したがって今日の選挙が ‘自由で公正な’ 選挙だと言うのは、いくら冗談にしてもきつい冗談と言わざるをえない。

 そういえば選挙の根本的な限界、あるいは選挙の ‘虚構性’ はすでに多くの先覚者によって頻繁に指摘されてきた。 例えば、米国の作家マーク・トウェインはかつて「選挙で真の社会変化が可能ならば、選挙はすでに不法化されているだろう」と痛烈に野次ったが、これは実は今日世界の知性によって広く共有されている考えだ。

 問題は結局選挙というものが、このように ‘民主的正当性’ を裏付ける根拠としては甚だ薄弱だという事実だ。 この点から見れば、三陟住民投票は一般的な選挙に比較する時、非常に堅実な民主的正当性を取得した投票であった。 なぜなら原発建設問題は数十年間にわたり地域住民間で焦眉の関心事になったし、したがって住民たちは問題を十分に熟知した状態で投票に臨んだためだ。 そうした点で通常の選挙とは異なり、より成熟して実質的な民主主義の実践形態、すなわち ‘熟議民主主義’ の発現だったと言うことができる。

 そのうえ、単純に投票率と投票結果を比べてみても、三陟住民投票は民主的正当性という側面で通常の選挙結果を圧倒している。 すなわち、今回の三陟住民投票率は70%に肉迫し、投票の結果として確認された原発誘致反対票はほとんど85%に達した。 したがってこれは、例えば投票率60%、支持率50%程度で当選した大統領が享受できる水準より、優越した民主的権威を認められて当然な結果と言える。

 三陟市民は不利な条件下でも住民投票を決行することによって国の主人が誰なのかを明確にした。 ますます人権と民主主義が深刻に蹂躪されている今日の状況で作り出した輝かしい業績といわざるをえない。 このような業績は窮極的に国と社会を堅固にする。 それでもこれを無視して踏みにじるというならば、国家権力は自ら孤立を自招して国民の敵にならざるをえないだろう。

 今、いわゆる政界とマスコミからは改憲の話が飽くことなく出ている。 世論も改憲を支持する側が優勢なようだ。 おそらく、私たちの大部分が民主的リーダーではなくファッショ的支配者として君臨しかちな帝王的大統領制の弊害を痛感したためだろう。

 しかし権力分散のための改憲に劣らず至急必要なのは、どのように民主主義を生かし、民衆権力を強化するかを考えることだ。 そしてたとえば、国民発議権や国民召還制などを導入し、比例代表制拡大のための選挙制度革新が緊急だと言える。 そうしない限り、権力構造の改編に関係なく、大多数の国民が政治から疎外される寡頭支配体制は相変らず続くだろう。

 今、私たちに迫られているのは新しくて古い宿題、すなわち自由市民として生きるのか、奴隷として生きるのかという問題だ。 したがって、改憲こそ市民社会が能動的に対応しなくてはならない問題と言える。 三陟市民が見せた市民的能動性を私たちは見習う必要がある。

キム・ジョンチョル『緑色評論』発行人 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/663287.html 韓国語原文入力:2014/11/06 18:39
訳J.S(3500字)

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