「73年が経ったが、まだ謝罪を受けていません。このまま私は涙を流しながら人生を終えなければならないのですか」
27日朝、日本の東京・千代田区の三菱重工業本社前で、勤労挺身隊被害者のヤン・クムドクさん(89)が声を上げた。ヤンさんは三菱の定期株主総会が開かれたこの日、韓国と日本の市民団体のメンバーとともに抗議デモに乗り出した。勤労挺身隊被害者を長い間支援してきた日本の市民団体「名古屋の三菱朝鮮女子挺身勤労隊を支援する会」メンバーら10人余り、韓国から来た「勤労挺身隊のハルモニ(おばあさん)と共にする市民の会」のメンバー20人余りなどがヤンさんの隣りに立った。彼らは株主総会に出席する株主たちに向かって「三菱重工業は、韓国最高裁(大法廷)の判決を履行せよ」、「被害者らの時間はもうあまり残っていない」とスローガンを叫んだ。
ヤンさんが韓国と日本の両国で法廷闘争を開始したのは27年前だ。ヤンさんは1992年、慰安婦被害者と勤労挺身隊被害者10人が日本政府を相手に起こした訴訟に参加した。ハルモニたちが釜山と下関を行き来しながら進められたこの裁判は「関釜裁判」と呼ばれた。山口地方裁判所は1審で慰安婦被害者たちにそれぞれ30万円を賠償するよう判決を下したが、勤労挺身隊被害者に対しては、賠償責任を認めなかった。2001年、広島高等裁判所は1審判決を覆し、慰安婦被害者に対しても棄却の判決を下した。ヤンさんは1999年、強制動員加害企業の三菱重工業を対象に名古屋地方裁判所に損害賠償訴訟をまた出したが、2008年に敗訴した。2012年、韓国で勤労挺身隊被害者たちが再び三菱重工業を相手に起こした訴訟に原告として参加し、昨年最高裁で賠償判決を受けた。しかし、日本政府は韓国の最高裁の判決は国際法違反だと反発して、三菱重工業も判決に従う意思を見せていない。
ヤンさんは国民学校(小学校)6年生の時の1944年、日本人の校長が「日本に行けばお金もたくさん儲けて(中)学校にも入ることができる」と言った言葉にだまされ、三菱名古屋航空製作所に行った。ヤンさんは27日の集会で「戦闘機にペンキ塗りをしたが、幼い年齢で大変な仕事をしたため、今も右側の手はうまく使えない」と話した。食べものが足りず水をたくさん飲んでいたが、トイレに頻繁に行くと言って日本人監督官が足で蹴ったりもしたと話した。ヤンさんは日本の記者たちに向かって日本語で「お腹が空いて働けないほどだった」と話した。
ヤンさんの訴えは近い距離でもよく聞こえないことが多かった。日本の右翼が「日韓断交」と書いた垂れ幕を掲げた車に拡声器をつけて後ろから現れ、「韓国に失せろ」「お前ら何を言っているんだ」と叫んだからだ。彼らは「韓国の憲法より国際条約である請求権協定が上だ」「強制労働はなかった」というような言葉を浴びせた。韓国の市民団体のメンバーらは28日、三菱重工業本社前で三歩一拝デモに乗り出す予定だ。
一方、三菱重工業の三島正彦常務取締役はこの日の株主総会で「日韓両国国民間の請求権に関する問題は、日韓請求権協定によって完全かつ最終的に解決された。いかなる主張もできないと理解している」とし、「韓国の最高裁の判決は極めて遺憾であり、当社は日本政府と連絡を取って適切に対応していく」と話した。