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[週刊ハンギョレ21]韓国が今のように暮らせているのは日本のお金のおかげだって?

登録:2019-08-06 21:50 修正:2019-08-08 09:14
恥ずかしいとも思わずに時代遅れの歌をまだ歌う 
そんな彼らを見て1951年のサンフランシスコ講和条約を改めて考える
安倍晋三首相が2018年、軍国主義の象徴である旭日旗を掲げた自衛隊を査閲している//ハンギョレ新聞社

 「韓国が今のように暮らせているのは、1965年の韓日協定の時に日本が渡したお金のおかげが大きいのではないか」、安倍晋三政権の代弁紙と言われる日本の極右新聞のソウル駐在論説委員は話した。そういう時には言うまでもなく、36年に及ぶ日帝強制占領期間に鉄道、道路を敷き、工場、学校を建ててやったおかげで今日の韓国があるという話まで飛び出してくる。もちろんそれは英国がインドを植民支配して、中国で阿片戦争を起こして蹂躪したこと、フランスがアルジェリアを植民支配したこと、イタリアがエチオピアを侵略したこと、ドイツがポーランドを踏みにじったことが、インド、中国、アルジェリア、エチオピア、ポーランドの発展のためにやったことだとか、それらの国々の現在の発展が賠償金(または補償金など)のおかげだと主張することくらいにとんでもない意見だ。愛してるから殴り殺したとか、助けようと思って奪ったという話と同じくらい。それでも戦後70年が過ぎた現在もなお、その時代遅れの歌をまだ歌いまくるとは、恥ずかしいとも思わずに。

ドイツで同じ話をしたならば

 今度は、もしかしたらその歌のメロディが変わるかも知れない。戦後世代初の首相という安倍晋三が率いる政権時期に、その歌をもはや以前と同じように歌うことは難しい変曲点に韓国と日本がついにたどり着いた兆候が明確になっている。半導体の主要材料の輸出規制に「ホワイト国(輸出管理優遇措置対象国、8月2日より「グループA」に名称変更)」排除カードまで持ち出し、第2次世界大戦以後の従来の安保・経済関係の枠組みを揺さぶり、敵対感を隠そうとしない日本の右派政権の最近の態度がそれだ。前例のないことだ。ドナルド・トランプ登場以後、いっそう明確になった「サンフランシスコ体制」(1952年4月に発効した米日講和条約と安保同盟体制)の動揺と、東アジア情勢の急変の中で、彼らがついに生存戦略を変えようとしているのか。新たな戦争の開始ならば、私たちはそれを“安倍の戦争”と言うことができるのではないだろうか。

 ところが、“安倍の戦争”で安倍に勝算がありそうでない。決然として猛々しい彼らの姿勢には、以前のような余裕も自信もないように見える。言葉は攻勢的だが、行動は守勢的だ。サンフランシスコ体制の最大受恵国である日本の主流右派勢力が、既得権を守ることこそが“安倍の戦争”の目的であるからだ。安倍政権の背後にいる「日本会議」が核心を掌握している“大本営”から送る宣伝スローガンは、焦点を失いながら一進一退し、内部からの反発も次第に頭をもたげている。なおさら“古き良き昔”への郷愁はさらに深まり、時の過ぎた過去の歌で慰められようとする欲求はさらに強まるだろう。戦後世代だが向かう方向は戦前だ。前に進むのではなく後退りする退行だ。それが、“安倍の戦争”が勝算のない戦争にならざるをえない理由だ。

 第2次大戦の同じ敗戦国であるドイツで、日本の極右新聞「産経」の幹部のような話をしたなら、狼狽されるかもしれない。1967年以後、今日までドイツで暮らしている福澤啓臣という日系ドイツ市民によれば、1972年に制定された「過激派条例」により「自由民主主義の原則を認めないドイツ人」との判定を受けて公職禁止処分を受けた人が1100人になる。判定を下す憲法擁護庁の審査を受けたドイツ人は140万人に達する(「緑色評論」 2019年7・8月号)。ドイツでは、今もナチ時期の強制収用所の元看守などの戦犯については、90歳を過ぎても裁判を開き刑を執行するという。

 しばしば韓国政府の「無礼」と「国家信頼喪失」を口にする安倍政権が、その基準として掲げるのが「すべての歴史問題を処理した」という1965年の韓日協定だ。韓日協定交渉の日本側首席代表も務め協定締結時には外相だった椎名悦三郎が、協定締結の2年前の1963年にこういう話をした。

 「日清戦争は決して帝国主義戦争ではなく、露日戦争はロシア帝国主義に対する痛快な反撃だった。(…)植民支配が朝鮮にも良いことだったと言った悪名高い“久保田妄言”も同じ脈絡だ」。ドイツだったら椎名は公職から追放されているか、戦犯として処罰を受けただろう。

 後藤新平は、台湾総督府民政長官、南満洲鉄道の初代総裁を過ごし、アジア植民侵奪の先頭に立ち、内務・外務大臣に東京市長まで務めた人で、椎名の叔父だった。椎名は安倍首相の母方の祖父である岸信介が商工大臣だった時から最側近になり、岸が日本の建てた傀儡国満州国の総務庁次長として満州国をもてあそんだ時に、その下で統制課長を務めた。その時、彼らが東条英機の関東軍と一緒に手を握った日本の財閥が日産だ。敗戦後、A級戦犯として巣鴨刑務所にいた岸が、1948年12月23日深夜12時頃に東条英機らA級戦犯7人が絞首刑にあった翌日に電撃釈放された後、彼の公職追放解除を米軍政庁に嘆願したのも椎名だった。

岸、椎名…積弊勢力の執権

 岸の孫である安倍首相が、2015年の戦後70年をむかえて発表した談話も、椎名の世界観にそっくりだった。「日露戦争は植民地支配下にあった多くのアジアやアフリカの人々に勇気を奮いたたせました」。21世紀になっても、彼らは露日戦争がアジア民族解放戦争だと言い張り、「栄光の大日本帝国主義」を懐かしがる時代錯誤の中に生きている。ドイツであれば当然に岸も安倍も公職に従事することなどできなかっただろうし、岸はおそらく命が助かることすら難しかっただろう。

 栄光の帝国主義を口ずさむ彼らが今、韓国に対して怒る理由は、清算されなければならないいかがわしい積弊勢力が政権を取ったためかも知れない。安倍首相が通った成蹊大学は、強制徴用被害者が賠償訴訟を提起した三菱系列の会社が設立と運営に深く関与している。安倍の実兄は、包装企業「三菱商事パッケージング」の社長だ。

 7月19日、河野太郎外相は駐日韓国大使を外務省に呼び、大使の話を途中で遮って、「日本が韓国の提案をすでに拒否したのに、それを知らないフリをして(再び)提案するのはきわめて無礼だ」とし、本当に無礼に話した。

 日本軍「慰安婦」と強制徴用被害者の対日訴訟で、犠牲者の側に立ってきた山本晴太弁護士は、韓国最高裁(大法院)の強制徴用被害者損害賠償判決に対して、「国際法上ありえない判断」(安倍首相)とか「両国関係の法的基盤を根本からひっくり返す暴挙」というなどの日本側の非難は、事実隠蔽や自己矛盾に近いと批判した(「世界」2019年1月号)。それによれば、放棄したのは国家の「外交保護権」だけで、韓日請求権協定で個人の賠償請求権が消滅したという日本側の主張は、2000年前後までは日本政府自身が否定してきた論理だ。

 河野外相の「無礼」発言は今回が初めてではない。彼は2月、訪米中だったムン・ヒサン国会議長が日本軍「慰安婦」問題と関連して「一言でいい。日本を代表する首相、またはまもなく退位する天皇が(謝罪することが)望ましいと考える」として「真心からの謝罪」を促した時も「きわめて無礼」と発言した。

(左から)1951年米日サンフランシスコ講和条約調印式。1970年西ドイツのウィリー・ブラント首相がポーランド・ワルシャワのユダヤ人慰霊塔の前でひざまずいた様子。日本軍の南京大虐殺で日本軍が中国人を生きうめにしている様子//ハンギョレ新聞社

条約締結に招請されなかった理由

 韓国の国際法的地位を決めた1951年の「サンフランシスコ講和条約」(1951年9月に締結され1952年4月発効)締結時、米国が作成した条約草案には、韓国が「対日平和(講和)会談の参加国に決定」されていた。1949年12月草案前文で、韓国は「連合国および協力国」の名簿に存在した。その年の12月29日、米国務省が草案と共に作成した「日本との平和条約草案に対する論評」も、韓国が数十年間の抗日抵抗、戦闘記録があるとし、講和条約署名国(当事国)にならなければならない理由を書いた(チョン・ビョンジュン、『独島1947』、トルペゲ、2010)。

 その講和条約を主導した米国大統領の特使、ジョン・フォスター・ダレス(ドワイト・アイゼンハワー行政府国務長官)が条約草案をひっくり返し、韓国の交戦国の地位が剥奪されたと最終通知したのは1951年7月9日だった。当時、ダレスの文書ファイルの地図に韓国領として明記された独島(ドクト)も、後になって所属自体がどこなのか明記されない曖昧な状態でごまかして、現在の「独島(ドクト)問題」の種が撒かれた。ダレスはなぜそうしたのだろうか?

 チョン・ビョンジュンの本は、その複雑で複合的な事情を米国立公文書館の1次史料に基づき詳しく追跡しているが、その要諦は、当時日本を冷戦の橋頭堡として育成するという米国の対日政策の変化とその機会を積極的に活用した日本の吉田茂内閣の執拗な韓国排除要求だった。その時、吉田がダレスに送った備忘録が残っている。

 「韓国が平和条約の署名国になるならば、日本国内の韓国国民は財産、補償などで連合国国民としての自分たちの権利を取得し主張するだろう。今日でさえ、ほとんど100万人に及ぶ韓国人居住者(終戦頃にはほとんど150万人)によって、日本はすべての方式の証明不能な途方もない要求に圧倒されるだろう。在日韓国人居住者の大部分が共産主義者という事実を指摘する」。

 その結果、短期間日帝の支配を受けた東南アジア国家と、日本とは関係のないポーランドなどが署名国として含まれた。フィリピンはその時、無償5億5千万ドルの賠償金など合計8億ドルを受け取り、インドネシアも同様な金額を受け取った。40年闘っても条約締結に招請されなかった韓国が、1965年に屈辱的な韓日協定で受け取ったお金(賠償金でなく独立祝賀金)は無償3億ドルなど合計5億ドルだった。

 韓国は戦勝国でなかったために、サンフランシスコに招請されることも署名国になることもできなかったのではなく、署名国の一員としてサンフランシスコに招請を受けることができなかったために戦勝国にならなかったのだ。そうした政治的決定を下したのは米国だった。日本を永久従属化した米日安全保障条約(安保同盟)を締結するためだった。

 その吉田の孫が、安倍晋三首相の政治的同志であり、首相まで務めた日本の現職財務大臣で副首相の麻生太郎だ。麻生は2013年7月の公開講演で、安倍政権の核心政治議題である憲法改正手続きと関連して「ナチスの手法を習ってはどうか」と言い、問題になったが、何事もなかったように過ぎ去った。ヒトラーが議会を掌握し、政治的反対者を弾圧し「授権法」を通過させてワイマール憲法を事実上解体してしまったように、日本の憲法改正もそのような形でしてはどうなのかという麻生の“冗談”は、“本音”でありうる。ドイツでそうした話をしたならば、たとえ冗談であっても無事には済まなかったろう。徴用された朝鮮人が、一日に1、2人ずつ死んでいったという戦犯企業「麻生炭鉱」の、その麻生グループ(麻生セメント)の直系後継者がまさに彼である。

佐藤vsウイリー・ブラント

 1941年、日本がハワイ真珠湾の米太平洋艦隊を急襲して太平洋戦争を始めた時、その最終決定が下された御前会議に商工大臣として参加し、東条内閣で軍需次官も務めたA級戦犯の岸。彼が1948年12月24日、3年3カ月ぶりに巣鴨刑務所から不起訴処分で釈放された時、その日訪ねて行ったのが、当時発足したばかりの第2次吉田内閣の官房長官である佐藤栄作だった。佐藤は岸の実弟だ(岸が岸家に養子として入籍した)。米中央情報局の資金を受け取り自民党長期執権の土台を築いた1955年保守合同(1955年体制)を成功させた主役である岸の後に続いて首相になった佐藤は、今日まで日本の戦後最長寿首相だ。孫の安倍がまもなくその記録を破るだろうが。戦争前の期間まで合わせた歴代日本最長寿首相は、今までは「桂-タフト密約」で米国から朝鮮支配を保証された桂太郎だ。安倍首相はまもなくその記録も破るだろう。

 日本とドイツの運命が大きく分かれたのは、ほぼ同じ時期に首相になった佐藤(任期1964年11月~1972年7月)とウィリー・ブラント(1969年10月~1974年5月)の執権の時だった。労働者階級の出身で私生子だったブラントは、10代の時から社会民主党党員として活動し、ナチ時代にはノルウェーに亡命しドイツに潜入して大胆な非合法活動を行いもした。福澤啓臣氏は「このような経歴を持った政治家がドイツの首相になったことは、ドイツが過去を反省し社会変革を成し遂げることに決定的な意味を持たせた」と述べた。

 ブラントは「より多くの民主主義」を叫び、果敢な改革政策を実行した。彼の執権の前年である1968年、欧州で「68革命」が起きた。弱者に対する連帯意識と平等意識、ナチ勢力の再登場に対する強力な拒否、反動的国家の改革、性解放、大学をはじめとする教育の民主化などを叫んだ68世代の社会変革運動のバトンを受け継いだブラントは、ナチスの遺産を清算することに積極的だった。東欧社会主義圏の国々との関係正常化を狙った「東方外交」で、ブラントは1971年にノーベル平和賞を受賞した。東西冷戦の終結とソ連崩壊にも彼の東方外交が重要な役割を果した。1970年12月7日、ブラントは初冬の雨が降るポーランド・ワルシャワのユダヤ人慰霊塔の前にひざまずいた。世界を驚かせたその謝罪で、ドイツの過去に対する凝りは解け始めた。

 ムン・ヒサン議長が日本の首相や天皇の「たった一言の真心こもる謝罪」を話した時、彼はおそらくブラントのその場面を思い浮かべていただろう。それを「きわめて無礼」なことと受けとめる日本右派の性格と歴史観、そしてドイツのそれは天と地の差だ。

 こういう話をすれば、600万人のユダヤ人ホロコースト(大虐殺)を行ったドイツと日本を比較するのかと抗弁するかも知れない。犠牲者数で罪業の軽重を分けることはできないが、犠牲者が5千万~8千万人に達するという第2次世界大戦の惨禍で、日本軍は虐殺した犠牲者数やその手法において、決してドイツに遅れをとっていない。その戦争で日本軍により犠牲になったアジアの民間人だけで2千万人を超える。その上、日本は40年の歳月を植民支配して差別と収奪で朝鮮を破壊した。

 佐藤栄作も核兵器を「作ることも、持つことも、搬入することもない」と宣言した非核3原則で1974年にノーベル平和賞を受賞した。だが、彼が米国と密約して、その3原則を有名無実化していたことが、後に発見された極秘文書で確認された。佐藤執権の時、日本はドイツとは全く違う方向に進んだ。岸-佐藤とつながった日本の保守政治は、ブラントが徹底的にナチなどの過去問題清算、東西和解の方向にドイツを導いて行ったこととは逆に、反共主義を前面に掲げた米国の冷戦的対決政策に便乗して経済的実益を取り、歴史問題を覆い隠して旧体制とその勢力を温存させた。第2次大戦敗戦3国のうち、その時の国旗と国歌をそのまま使い続ける国は日本だけだ。

征韓論者以来、変わっていない

 1965年の韓日協定締結当時の首相が佐藤だった。その相手は、“昭和の妖怪”というあだ名を持つ彼の兄の岸が「自分が設計した」と声高に言った満州国で、東条英機が指揮した関東軍傘下の満州軍将校として服務した朴正煕(パク・チョンヒ)だった。この二人を構成したのが米国で、それこそがサンフランシスコ体制の産物だ。安倍政権は、今揺れ動いているその体制が日本に提供した既得権を守ろうとして、そこに従順に従おうとしない文在寅(ムン・ジェイン)政権を邪魔者と感じて排除したがっているようだ。彼らは、輸出規制とホワイト国排除カードが、韓国内の反政府世論をそそのかし、文在寅政権を挫折または屈服させられると勘違いしているようだ。そこには“反文”(反文在寅)の旗じるしの下に、ことあるごとに足を引っ張る韓国の保守主流メディアの記事だけを選択的に受け入れる彼らの右翼偏向が一役買っただろう。それだけ見れば、韓国はまもなく滅びる国に見えたから。

 “安倍の戦争”は、痛恨の過去をそのまま明らかにし、大規模賠償・補償作業を継続して過去を清算することによって逆に信頼を得たドイツとは全く違う方向だ。改憲を通した“普通の国”化戦略と関連した“安倍の戦争”は、欧州連合に帰結されたブラントのドイツとは違い、東アジアを分裂と対決に追い込む新しい禍根になるかも知れない。“征韓論者”吉田松陰以来、変わっていないように見える彼らの戦争はしかし、失敗するだろう。

ハン・スンドン 言論人・元ハンギョレ記者

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/904686.html韓国語原文入力:2019-08-06 11:19
訳J.S

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