ソウルの南大門(ナムデムン、崇礼門(スンネムン))と円覚寺(ウォンガクサ)跡の十重石塔は、59年前に指定された大韓民国の国宝第1号と第2号だ。1962年に文化財保護法が制定され、指定番号のついた国宝・宝物制度が施行されて以来、「国宝1号南大門、国宝2号円覚寺塔…」で始まる指定番号の叙述方式は、国宝の権威を表す公式のようになっている。
なぜ崇礼門と円覚寺塔は国宝1、2号と定められたのだろうか。文化財庁は「管理のための便宜的な番号に過ぎない」と説明しているが、論争は絶えない。日帝強占期の1933年、朝鮮総督府は「朝鮮宝物古跡名勝記念物保存令」を発し、翌年の官報に169件の宝物、古跡、天然記念物などの1次指定文化遺産を発表する。この時、宝物1、2、3、4号(当時、国宝は日本現地の文化財のみが指定された)に指定されたのが南大門、東大門(トンデムン)、普信閣鐘(ポシンガクチョン)、円覚寺塔だった。この時も1号は南大門だった。東大門と並んで旧ソウル都城の関門であること、壬辰倭乱(イムジンウェラン)で日本軍の将がソウルに入城した門であることなどが考慮された。このような指定慣行が解放後も続いたという学界の推定が出た。
このような推定は、歴史的真実にどれほど近いのだろうか。最近、その始まりが庚戌国恥(キョンスルククチ、1910年のいわゆる「日韓併合」のこと)前の日本の学者による古跡調査にまでさかのぼり、その時に文化財の価値を4段階に分類した主観的判断が、後日になって国宝・宝物指定に大きな影響を及ぼすことになった。このことを示す歴史的な手がかりが登場した。1909~1910年に朝鮮半島の文化遺産500点あまりの状況を公式に調査し、初めて分類リストを作った日本の建築史学者、関野貞と、補助研究者として作業を手伝った谷井斉一の報告書『朝鮮芸術之研究』本編(1909)と続編(1910)が最近発掘され、翻訳本が公開されたのだ。
追跡作業を行ったのは、嶺南大学文化人類学科のチョン・インソン教授(考古学)だ。同氏は日本で数年前に入手した『朝鮮芸術之研究』2編と谷井の個人資料を完訳し、分析を添えた資料集を10日に公開した。
「韓国の考古学者が書き直す『朝鮮古跡調査報告』」と題する資料集は、慶尚北道と社団法人韓国国外文化財研究院の支援により発表された。『朝鮮芸術…』の一部である「朝鮮建築調査略報告」(関野執筆)によると、関野と谷井は当時の朝鮮の文化遺産547種を対象として、撮影、分析、掘削などを含む踏査を行い、甲、乙、丙、丁に分類した。日本の歴史と関連性があったり、芸術性や歴史的価値が最も優れているものを甲、それに次ぐものを乙とした。丙、丁は保護の必要性がないか、転用できるものとして分類した。甲の冒頭に南大門と円覚寺十重石塔が登場する。続いて昌徳宮敦化門(チャンドックン・トンファムン)、文廟大成殿(ムンミョ・テソンジョン)、慶州(キョンジュ)の芬皇寺塔(プンファンサタプ)、瞻星台(チョムソンデ)、仏国寺多宝塔(プルグクサ・タボタプ)、石窟庵(ソックラム)、太宗武烈王陵(テジョンムリョンワンヌン)碑石などが、乙には東大門(トンデムン)、水原(スウォン)城郭、明倫堂(ミョンニュンダン)などが挙がっている。
このように等級を分けたことは、この地で初めて官と学界によって実施された近代の文化財分類という点で目を引く。チョン教授は「帝国主義日本の官学者たちが、ひたすら彼らの視線のみで韓国の文化財を裁断したという事実が、赤裸々に表れている」とし「特に、南大門と円覚寺塔が1909年の分類記録にも甲の冒頭に上がっている部分に注目すべき」と述べた。京城(キョンソン)に入った調査団が駅を出てすぐに出会った最初の古跡が、すなわち崇礼門であり、調査団長の関野が京城で最も古い建築物の一つとして格別の関心を表明したことが、国宝第1号としての地位を固める根拠となったということだ。円覚寺跡石塔についても、関野は「15世紀のこの塔は、意匠が豊か、かつ手法が精麗で、朝鮮において傑出しているのみならず、中国でも比肩しうる塔は稀」と激賞した。こうした判断が、結局は後代の「国宝1号南大門、国宝2号円覚寺塔…」へとつながる指定番号の慣行を生んだという説明だ。
チョン教授は「1909年~1910年当時の古跡調査は、日帝当局が行政や統治の拠点として再利用できる朝鮮の建築遺産を探すという目的が大きかった」とし「甲、乙として報告された文化財は当局の管理を受けられたが、丙、丁は施設に転用されたり撤去の対象となったりしため、喪失・毀損の受難を経た」と語った。実際に慶州、沃川(オクチョン)、報恩(ポウン)、黄州(ファンジュ)などの全国各地の数多くの朝鮮~大韓帝国時代の官公庁、軍事施設や、海印寺(ヘインサ)、通度寺(トンドサ)、法住寺(ポプチュサ)をはじめとする主な古刹のかなりの数の殿閣が丙、丁と判定され、かなりの数が取り壊されたり傷つけられたりしていることが確認されている。開城(ケソン)の南大門に至っては「甲」に指定されたものの、憲兵隊が無断で占有し、「ペンキ」を塗って分遣所として使用し、関野が当時の曾禰統監に善処を要求したという内容も報告書に見える。