米軍と日本人が共存する
解放直後、ソウルの風景
近代的な建物・和風洋館が並び立つ
朝鮮戦争の惨禍後の写真も展示
1945年8月15日、日本帝国主義が敗北し、米軍政が始まるとともに、京城はソウルに名前が変わった。しかし、解放直後、ソウルの景観は京城と呼ばれていた時とそれほど変わらなかった。ソウルの街には、新しい異邦人の米軍とまだソウルを離れられなかった日本人が朝鮮の人々と共存しており、日帝が作った京城神社は米軍の記念撮影場所となった。
ソウル市立大学博物館(館長キム・ジョンソプ)で開かれる「ソウル、1945」展は写真で見る解放直後のソウルの姿をそのまま写し出す。第1部「1945年ソウルの景観」では、韓国戦争で廃墟となる前のソウルを見渡すことができる。南山(ナムサン)から見下ろした1945年のソウルの全景には、中央庁(旧朝鮮総督府庁舎)をはじめ、近代的な建物と和風の2階建て洋館が並び立つ。中央郵便局とソウル市庁、南大門(ナムデムン)路の前を走る電車と車の間から、米軍と軍用トラックが見える。風呂敷包みを背負った女性と牛車の隣を太極旗(韓国国旗)と星条旗を掲げた兵士たちの行進行列が通り過ぎる。解放直後の鍾路(チョンノ)と乙支路(ウルジロ)一帯の景観を写した写真は、宗廟や昌徳宮、雲峴宮、パゴダ公園、明洞聖堂をはじめ、広く区画された空間に家屋が密集した都心の風景を伝えてくれる。
龍山(ヨンサン)・孝昌(ヒョチャン)公園一帯を中心に飛行機から撮らえたソウル市は、北漢山につながる1945年の姿を、永登浦(ヨンドンポ)一帯を撮らえた写真は、高い煙突が並ぶ工業地帯としての永登浦を確認させてくれる。
また、京城神社天満宮前の雄牛像やお寺の一柱門に当たる神社の鳥居で記念撮影をする米軍の姿を通じて、今は跡形もなくなった神社の姿も見られる。
第2部の「1945年、ソウルの人々」は、屋台や行商、米軍を乗せていく人力車、距離を行き来する人々、満州、日本、中国などから帰還した同胞を対象に「円仏教」が運営していた救済事業所などを写した写真で、解放直後のソウルの人々の生活が撮られている。
この展示では、韓国戦争の惨禍が爪跡を残した1950年の初め、日帝強占以前である1890年代の帝国時代のソウルの姿もうかがえる。 「ソウル1950s」では朝鮮戦争当時、爆撃で屋根が飛ばされた旧龍山総督邸、土肌が露わになった南山などを通じて、戦争の惨禍を感じることができる。
また、日本植民地支配の象徴だった南山の朝鮮神宮が解体された跡地に大きな十字架を祀った礼拝所が建てられ、米軍の祈りの場に変貌した姿も確認できる。 「ソウル、1890s」では大韓帝国の時期の武官学校、軍事訓練の場面などが入った慶熙宮、高い城壁でつながった興仁之門(東大門<トンデムン>)、徳寿宮仁化門、 圜丘壇など、旧韓末の城郭都市ソウルの風景がよく現れている。
約100点の貴重な写真が見られるこの展示は、10月30日まで開かれる。週末は休み。
韓国語原文入力: 2015-06-16 19:47