登録 : 2016.01.26 10:21 修正 : 2016.01.26 16:35

義兵研究所所長・李兌龍博士

義兵研究所所長・李兌龍博士=イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
 「安重根(アンジュングン)義士が伊藤博文を処断した拳銃の出処を明らかにすることが、それほど重要なことなのかと語られることがあります。しかし安義士が義兵将の李鎭龍(<イジンリョン>李錫大<イソクテ>)と交換した拳銃を使ったという『毅菴柳先生略史』にある記録は、ハルビンでの義挙が、ある英雄の突出した行動ではなく、旧韓末以来の義兵運動の頂点として起きた民族的偉業という事実を裏付けています」。義兵研究家として知られる李兌龍(<イテリョン>義兵研究所所長)博士は最近、月刊誌『英雄』(2016年新年号)で「安義士義挙拳銃出処の秘事」を公開した。1909年当時、沿海州(ウラジオストック)の義兵連合体だった十三道義軍都総裁の毅菴(ウィアム)・柳麟錫(リュインソク)先生(1842~1915)の一代記を記録した毅菴柳先生略史で確認された内容である。この記録は義挙当時19歳だった毅菴の実の息子の柳海東(リュヘドン)先生(柳濟春<リュジェチュン>1891~1981)が解放後、直筆で書きとめたもので、宗家の子孫リュ・ヨンチャン氏(75)が春川にある毅菴記念館に寄贈して保管してきた。李博士は今まで「解題」しか世に出ていなかった「略史」13章のすべてを翻訳する過程で、安義士と毅菴の関係をはじめ、拳銃と資金の出処などまだ知られていなかった事実を確認できたと明らかにした。

義挙前に李鎭龍義兵将の拳銃と交換
毅菴先生に義挙を明らかにすると激励
毅菴柳先生略史の専門翻訳で確認
月刊『英雄』新年号に“秘事”を初公開

安義士「拳銃は盗んだ」と陳述して隠蔽
日帝裁判記録にだけ依存した研究に盲点
突出した行動でない義兵運動の頂点を意味する

<(1909年) 9月、毅菴が孟嶺(モングガイ)に移住するので李相卨(イサンソル)が来訪し、続き安重根と鄭在寬(チョンジェグァン)が訪ねてきたが、安重根が北満州に来る伊藤博文を処断すると告げた。これに対し毅菴は、「幸い殺せれば国家の敵ばかりか東洋平和をかく乱する罪をも容赦はしないという大義を明らかにさせ、世界の人をしてこれを認識させた方が良い」と激励した。偉業に成功すると毅菴は喜び、ウラジオストックに渡り大きな宴を開かせたという。>

<(毅菴に会い)帰り道で金起漢(キムギハン)と李鎭龍の二人と一緒の船でくると、李鎭龍が拳銃を磨いているのを見て(安重根が)自分のものと交換するよう要請するが(李鎭龍が)応じず、酔いもあって言い争いになったので鄭在寬が間に入り、「安兄がイドゥン(伊藤)を射殺するのに、(李)兄の銃が良く見え、取り換えたいと思ったようだ」というので李鎭龍が銃をあげ、「必要とあらば昔の荊軻(けいか)がした樊於期(はんおき)のように、首でも取ってくれというなら差し出すだろうに、実情を語らないのは私を度外視しているではないか」と言って、再び酒を交わし、海港にやってきて数日後、安重根がハルビン駅頭でイドゥンを撃ち倒したので、喜んだ先生は海港に行き下人に大きな宴を開かせた。>

 略史で安義士が登場する二つの場面だ。略史の内容は2009年に学術論文を通して初めて公開され、2010年に毅菴を主題にした学術会議でも一部公開されたが、注目を浴びることはなかった。李博士は「今まで学界では安義士が残した『安應七歴史』と裁判記録、『駐韓日本公使館記録』『統監府文書』といった日帝(日本帝国主義)が残した資料などに依存してきたため、自らの義兵運動の記録を探さなかったり無視してきた弊害がある」と指摘した。安義士は日帝検察の審問と尋問過程で背後勢力を徹底的に隠したため、裁判記録をそのまま受け入れるより、歴史的脈絡の中で伏せられた意味を解釈しなくてはならないという。

 「実際に安義士は尋問過程で、自らを大韓義軍参謀中将であり、直接の上官は金斗星(キムドゥソン)、金斗星は八道義兵の総督だと明らかにした。主な義兵長にはほとんど殉死した人物を、生存者は良く知られた人物だけを言及した。江原道出身の八道義兵総督こそ十三道義軍都総裁の毅菴だったのに、仮名を使って話した」

 安義士は1909年11月27日、旅順監獄で主な共犯として逮捕された15人の他、李相卨と八道について尋ねられると「李相卨は万国平和会議に行っていなかった」と陳述しているし、「毅菴は去年春に沿海州で会った。15歳くらいの男の子(柳海東)を連れていた。(中略)耳が遠くなり視力も弱く、かなり老いぼれた老人で、世界の大勢や東洋の局面を分かる者ではなく、頑固で時勢に暗い者とは意見が合わなかった」と答えていた。このため統監府文書(1909年12月15日の旅順監獄での安重根の陳述内容)には、共犯以外にハルビン義挙の任務を遂行した疑いのある者の中で、毅菴は7番目の人物として記録されている。李博士は、今まで学界では安義士が義挙直前の動きの陳述で孟嶺について言及しなかったという理由から、毅菴の存在を無視してきたが、略史の具体的な情況と韓国義兵史に照らしてみれば、これも安義士が故意に隠したものと分析した。

 毅菴は京畿道の楊根と砥平(現在の楊平)を中心に江原道と忠清道地方の儒林を代表した李恒老(イハンロ)の華西学派出身だった。1907年に光武皇帝の密旨をもって義兵闘争を指揮した彼は、湖左義陳を導き官軍と対抗して大敗した。1908年6月、67歳の時に釜山から沿海州に渡り、沿州(クラスキノ)にあった規模の大きい韓人の村を基盤に活動中だった李範允(イボミュン)などと合流して大韓義軍を組織した。日帝の奸計で沿海州同胞社会の指導者の間の反目が深まり、毅菴はこれを解消するため1909年6月に沿海州義兵連合体を導き、十三道義軍都総裁になった。李範允倡義総裁、李南基(イナムギ)壯義総裁、李相卨別指揮、鄭在寬、安昌浩(アンチャンホ)、李鍾浩(イジョンホ)外務員、崔友翼(チェウイク)、安重根、李甲(イガプ)、王昌東(ワンチャンドン)義務員、洪範図(ホンボムド)を先鋒将にそれぞれ選任した。

 李博士は「毅菴は湖左義陳を指揮していた時に銃に撃たれ足をひどく引きずっていたので、外見はみすぼらしい老人に見え、地域住民たちでさえ重んじることはなかったようだ」と説明した。また、安義士は拳銃と旅費130~140ウォンを用意した李鎭龍義兵長についても「平安道から来たイ・ソクサン(仮名)という者を拳銃で脅して借りたもの」と述べた(『統監府文書』被告人安應七第八回訊問調書)。だが李博士は「これまで学界では李鎭龍義兵将が黄海道の平山義陣を導くなど、国内でだけ活動した人物と思われていたため、安義士と関連性が薄いと無視してきたが、日帝の秘密記録である統監府文書に李鎭龍が銃器購入のため沿海州を何度も行き来していた事実が出ている」と明らかにした。

 今まで安義士の拳銃は、財政後援者として知られた崔在亨(チェジェヒョン)先生が出したという説、他の独立活動家が提供したという、その子孫の主張があっただけで、具体的な出処に対する記録は毅菴略史が唯一だ。

 李博士は国語教師出身で90年に『義兵文学選集』出版作業に参加したのを機に義兵研究に没頭し、30年近く義兵運動史を発掘している。

キム・ギョンエ記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2016-01-25 20:28

http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/727830.html訳Y.B

関連記事
  • 오피니언

multimedia

  • most viewed articles
    • hotissue