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[インタビュー]「日帝が遺した家屋を研究し韓国式家屋を作る大工になりました」

登録:2015-02-25 00:07 修正:2015-02-25 06:48
元漢陽大学建築学科教授 冨井正憲氏
冨井正憲元漢陽大学建築学科教授//ハンギョレ新聞社

 京畿道龍仁市(ヨンインシ)水枝区(スジク)東川洞(トンチョンドン)山17~26。アパートを建てるには傾斜が険しい山に、S字形に道が通り、その道を中心に単独住宅が2戸、共同住宅2棟4世帯が建った。 年末までに15棟17世帯と村会館1棟ができれば村の姿が現れることになる。建築主は全て近隣の代案学校の教師と父母たちだ。

 住宅は自然親和が基本で、全て木造住宅であることに加え土地の傾斜を生かして建てられた。 25%(14度)の傾斜ならば築台を積んで地ならしをするのが普通だが、住宅は山の麓に巻貝のように張り付いている。道の下側の門からは1階に、道の上側の門からは2階に入ることができる。共同住宅はそんな風に世帯を分けているが、単独住宅では階の区分は意味がない。3階の高さだが、傾斜度に合わせて上下に細かく分けられた5~6段階の空間が内部階段を通じてジグザグに連結され、“わんぱくスマーフ”の家のようだ。

 この村の中心設計者として参加した人が建築家の冨井正憲氏(66・写真)だ。 2013年、漢陽大学建築学部教授として定年退職して以来、大工として第2の人生を送っている。

83年からリュックサックを背負い、韓国の路地裏踏査
 日帝時代の日本人住居地を研究テーマに
 40年代の住宅営団を調査して博士学位
 10年前にソウルへ移住し「1930年京城」展示
 2年前、退任後に大工として“第2の人生”
 以友学校共同住宅団地の設計に携わる

 「建築主が共同体の村と自然親和を目標に村会館まで構想していました。傾斜地を生かして木造住宅を中心にしようと決定されて、私との縁ができたのでしょう」。10年前に漢陽大教授として移ってくる前は、日本の神奈川大学建築科教授兼建築家で、100余棟の木造住宅を作ったことがある上に、傾斜を生かすという趣旨が彼の挑戦欲求を刺激した。

 彼と一緒に一期分として完成された住居に入ってみると、一般住宅に馴染んだ目には本当に奇異に見えた。平らな土地に仕切り壁を積み、ドアを付けて部屋を作る販売住宅型の家はどんな家具を入れて誰が入るかにより用途が決まる。冨井の家は正反対に、初めから家主の要求を反映して空間を構成し、個別の部屋も使い途をあらかじめ決めて位置を定め格好をつけた。奇異な感じは優れて私的なオーダーメード空間だったためだった。もっと変わっているのは、全階が下から上まで通じていて、トイレなど特別な場合を除けば部屋ごとのドアがない。その上、階段がジグザグに配置されていて下の階から上の階の様子が見えて「○○、ご飯だよ」と呼ぶ声がそのまま聞こえる。壁を曲げて身を低めればプライバシーが維持されるようになっていた。

 「韓国の田舎の家からヒントを得ました。部屋より低く台所を作ることで家の構造がとても多様化します。 台所から1,2段上がれば広間や部屋につながり、二つの空間の人々は若干高さが違うところで互いを見ることになります。 かまどの上の空間は居間から延びた中二階になっていますよ」。 韓国の住宅構造とその意味を彼が韓国人より深く理解しているのには、彼の個人史が絡まっている。

 1972年神奈川大建築学科を卒業した彼は、大学に助教として残った。ギリシャの中庭型の村を研究している指導教授について現地調査に行った。だが、地中海地域の住宅構造は日本の都市住宅と違っていて興味がなかった。その頃、高麗大学のチュ・ナムチョル教授の「韓国の伝統的住居」という論文を見て、韓国にも中庭型住宅があることを知った。 1983年35歳の春にバックパック旅行を始め、休みの度に韓国を訪問した。 ある日ソウルのコリアハウス付近を歩いていた時、東京の路地裏に入ったような気がした。 見回せば日本式住宅が多かった。 日帝強制占領期間に形成された日本人住居地だった。 研究テーマを見つけた瞬間だった。

 以後、金史良の『天馬』、梶山季之の『京城昭和十一年』など、強制占領期間の京城を舞台にした小説を漁って読んだ。京城昭和十一年が描写した本町(現在の明洞(ミョンドン)乙支路(ウルチロ))、鍾路(チョンノ)一帯の姿を見て、当時の地図があればという残念な思いをした。 自ら地図を作ることにした。 当時、朝鮮総督府で作った地籍図と毎年発行されていた電話帳を手に入れ、電話帳に登載された商号と住所を地籍図に表示するやり方だった。本町には二つの小学校があったが、毎年開かれる同窓会に訪ねて行き、参加していた老人たちに自身の未完成地図を見せながら空欄を埋めていった。 李箱が営んでいたという“チェビ(つばめ)茶房の位置もそんな風にして突き止めた。 ソウル歴史博物館では冨井の作業を基礎に2012年「1930年京城」という展示会を開いた。

 強制占領期間の住宅に対する関心は、1940年代初めに設立された営団住宅に移った。 営団は現在の土地住宅公社(LH)の半分である旧住宅公社の前身で、当時日本、朝鮮、台湾、中国遼東半島で大規模住宅団地を作った。 地域による様式の差異や終戦後の使用法まで調べた。研究の結果、朝鮮住宅営団は日本式住宅文化や生活様式を普及させ、朝鮮を日本化しようとする意図があったという結論を得た。それが彼の東京大学での博士学位論文だ。

 「教授だった時には講義・研究と研究室を訪ねてくる人が全てでした。今はやりたい仕事をして、会いたい人に会えて本当に楽しいです」。大工としての最初の作業は慶州(キョンジュ)の貧しい日本人留学生のための韓国式家屋だった。住居兼レストランで、1億ウォンで16坪の母屋と5坪の離れを作った。洋式木造住宅の骨組みに韓国式家屋の垂木をのせる方式で、梁を省略することによって資材費と労賃を最小化した。アイデアは梁も柱も使わずに組まれた石窟庵(ソクラム)のドーム天井から得た。 朝鮮時代の韓屋(ハノク・韓国式家屋)が韓屋の全てだと思われているが、彼は新羅や高麗の時代には色々なスタイルが共存していたとし、石窟庵の構造もその一つだと話した。

 「業者が一方的に提供するアパート時代から、建築主の個性が反映される戸建て住宅の時代が花開くので、住宅を眺める視覚も変わらなければなりません」 建築現場に通いながら太陽の光に日焼けして笑う時に見える白い歯がひときわ白く見えた。

文・写真 イム・ジョンオブ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/679515.html 韓国語原文入力:2015/02/24 19:25
訳J.S(2797字)

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