洋装店、古本屋、不動産紹介所、美容室、雑貨屋…。業種を示すショーウィンドーの横に出入り口がある。ドアを開ければチリンという鐘の音とともに陳列台や作業場があり、その後にある小さな窓がついた障子が開いて主人が現れる。
仁川市中区新浦路(シンポロ)31番通り38番地。 中区庁から300メートル離れた閑静な住宅街に「関東ギャラリー」が30日に開館する。 住居を兼ねていたために、再開発と共に消えていくよくある路地裏商圏の店がギャラリーとして復活したように見える。金属板で覆われた外見とは異なり、ドアを開けると木の柱が目に入り、木造住宅であることがわかる。 展示場の左についている狭い階段で2階に上がれば、丸見えの大黒柱の下に屋根裏部屋を含む複層の空間が広がっている。 丸太の梁と垂木から漂う歳月の臭いがする。
「遅くとも1930年代初めに建てられた都市型連立住宅です。日帝強制占領期間の建物だろうと予想はしていたけど、今では日本でも珍しい木造連立住宅だとは思いませんでした」。2013年末にこの建物を購入したというリュ・ウンギュ(写真家)・戸田郁子(強制占領期歴史研究者)夫妻は、7カ月に及ぶ大々的な工事を終えた。建ててから90年近く経った古い建物を壊さなかったことも、日本人建築学者の考証と諮問を受けて文化財修理の資格証を持つ韓国人大工の匠の手を借りて再生した点も特異だ。 強制占領期間の近代文化財補修作業に専門家の参加を義務付けていない現実とも対比される。
「前面がタイル セメント壁なので古い洋館のように見えました。でも、道路に面した側が狭い長方形構造である点、狭い廊下に三部屋が並んでいるのは典型的な日本式でした」。リュ氏は漢陽大学建築学科の冨井正憲客員教授に助けを乞い、そのことが補修ではなく再生作業の始まりになった。 冨井教授は1930年代の明洞(ミョンドン)、忠武路(チュンムロ)一帯の日本人街を再現する作業を進め、石窟庵(ソクラム)の柱のないドーム構造を応用した韓国式家屋を設計・施工したことのある建築家であり建築史学者だ。 東大の建築学博士で日本で100戸以上の住宅を設計し、2008年から2012年まで漢陽大学建築学科教授を務めた。そこへソヨ建築のイ・キフン韓屋チーム長が合流した。
下部が腐った柱の横に新しい柱を立てて、沈んだ屋根を持ち上げる一方、実測と考証作業が行われ、家屋の正体が明らかになった。 壁を共有して並んだ5世帯の隣家が同じ構造であり、大黒柱が連結されていることが確認され、木造連立住宅であることが明らかになった。 ハングル建物台帳には1939年に新築されたとなっているが、該当建物の姿がはっきり出ている1930年代初めの仁川府実態調査地図を捜し出し、建物の年齢は80歳に上がった。ところが、階段工事を行う過程で隠れていた梁が露出し、梁を覆っていた紙が大正13年(1924年) 1月19日付『京城日報』であることが確認され、さらに10年年齢を上げることになった。
「旧洞名が官洞だった点や使われた木材が堅牢なことから、日本領事館の場所に仁川府庁舎を作った1933年頃に同時に作られた官舎だと思われます。柱の間の距離を測定してみると、関西地方出身の大工が作業したに違いありません。 畳の大きさが東京とは違います。 近隣にあった長崎十八銀行、大阪五十八銀行と共に、その地方の大工も流入してきたものと推定します」
戸田氏は「この家屋が日本式であることは明らかだけど、丈夫な屋根、厚い壁など韓国化した姿を見せている」と話し「今回の再生過程でも韓国人大工との協業で韓国式が加味された」と話した。
関東ギャラリーはリュ教授の中国内朝鮮族に関連した写真アーカイブを主に展示し、地域作家の展示空間としても使われる予定だ。来る30日に開かれる最初の展示は今回の再生作業を記録した「仁川日本式住宅再生プロジェクト」だ。 冨井教授の「海を渡った日本式住宅」という論文も発表される。