1950年7月4日、イム・スンジェは生まれて100日が過ぎたばかりの娘の泣き声を背にして家を出た。「儒城(ユソン)警察署に出頭せよ」という通知に従わなかったら、後でどんな目にあうか分からなかったからだ。いやな予感がした。妻には「警察署に寄ってから出勤する」と言って、いつものように自転車に乗った。
大徳郡(テドックン、現在の大田市大徳区)の懐徳面邑内里(フェドンミョン・ウムネリ)で生まれたイム・スンジェは、幼い頃から聡明で家族の期待を一身に背負っていた。本家に人手が足りなかったため養子に入ったが、伯父と伯母は彼を実の息子と考えていた。日帝強占期に鉄道学校を卒業した彼は、1944年に鉄道局に就職して順調な職場生活を続けていた。1950年4月に次長になった矢先に戦争が起きた。
いつものように自転車に乗って出勤した後、イム・スンジェは消えた。家族は彼を探しまわった。警察官だったイム・スンジェの義弟は儒城警察署を訪ね、彼の行方を尋ねた。同じ警察官なのに儒城署の警察官は「二度と聞くな。訪ねてもくるな」と色をなした。
「山内に連れて行かれたんだそうだ」
彼の行方について「山内(サンネ)」という地名が言及されるようになったのは、ある程度時間がたってからだった。
■私は韓国で真実を見た
英国の日刊紙「デイリー・ワーカー」の記者アラン・ウィニントンは1950年7月、大田(テジョン)山内のコルリョン谷(コル)を訪れた。同年8月、「私は韓国で真実を見た(I saw the truth in Korea)」との見出しを付けた記事で、彼は当時のコルリョンコルの現場の様子を次のように描写している。
「歩くたびに徐々に地中に沈んでゆきつつある肉片や骨が見えた。(中略)大きな死のくぼみに沿って青白い手、足、膝、肘、そしてゆがんだ顔、銃弾によって割れた頭が地面から突き出ていた」
ウィニントン記者が現場を訪れたのは、1950年7月6日から7月17日未明にかけて起きた「第3次コルリョンコル虐殺」の直後だった。イム・スンジェがコルリョンコルに連れて行かれたのも、この時と推定される。
ウィニントンは記事で「7月16日に100人ずつ乗せた37台のトラックが移動し、かなりの数の女性を含む3700人の人が射殺された」と記している。彼は「銃撃や殴打、そして斬首は韓国の警察が行ったが、これは米国の犯罪」、「(虐殺は)米軍の将校たちが見守る中で行われ、(虐殺過程に動員された)運転手のうちの数人は米国人」だと報道した。
コルリョンコルで最初の虐殺が起こったのは、戦争勃発直後の1950年6月28日から6月30日にかけて。当時、李承晩(イ・スンマン)大統領とシン・ソンモ国防部長官ら政府閣僚たちは27日未明、大田に来ていた。翌日、予備検束で逮捕された保導連盟員と大田刑務所に収監されていた麗水(ヨス)・順天(スンチョン)事件関連の思想犯の一部がコルリョンコルに連行された。
大田東区朗月洞(トング・ナンウォルトン)にあるコルリョンコルは、人影の少ない谷間だった。米陸軍対敵諜報隊(CIC)の派遣部隊の戦闘日誌は、6月28日からの3日間でコルリョンコルで1400人が銃殺されたと記録している。当時、銃殺を執行した警察の責任者はメディアとのインタビューで、次のように証言している。
「死刑に使う柱を地面に10本打ち付けておいて、死刑囚の目を覆い、後ろ手に木の柱に縛りつけた。7メートル前方から狙撃手が、弾丸が1発ずつ装填されたM1で射殺した。(憲兵の)指揮者の号令に従って(憲兵が)撃つと、死刑囚の首がガクッと下がった。すると指揮者が確認射殺をした。確認射殺が終わると、消防隊員が手の縄をほどいて遺体をあらかじめ準備していた薪の山に投げ入れた。遺体が50~60体たまったら火葬した」
1950年7月1日未明、李承晩大統領は秘密裏に大田を去った。大統領が去ったその日の明け方、大田地検の検事長は大田刑務所に「左翼極烈分子を処断せよ」という電文を送った。当時、大田刑務所には4千人が収容されていた。7月2日、第2師団の憲兵隊は大田刑務所に「左翼囚、すなわち布告令・国防警備法違反など主に麗水・順天反乱事件(の関係者)、保導連盟員、10年以上の強力犯を引き渡せ」と要求した。翌日、在所者たちはコルリョンコルに連行された。当時、大田刑務所の特別警備隊長は、その時の状況を次のように述べている。
「在所者を座らせて穴の方に向かせ、在所者の後頭部に突き付けて撃つんだ。後ろから撃つと血と脳髄の白っぽいのが飛び出して、ズボンがぐちゃぐちゃになる。すぐに穴に死体が逆さまに突き刺さって足が上に向き、ひどいものでした。憲兵の指揮官が青年防衛隊に山の上から石を転がして持ってこさせて死体を押さえつけさせていました」
5日間続いた第2次虐殺の犠牲者は1800~2000人と推定される。1950年6月28日から7月17日にかけて、3次にわたり7千人あまりがコルリョンコルで集団射殺されたのだ。(2に続く)