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[フォト]日本軍「慰安婦」被害者パク・オクソンさんが100歳に…上寿の宴

登録:2023-05-09 03:57 修正:2023-05-09 09:02
父母の日を迎え、日本軍「慰安婦」被害女性たちの暮らす京畿道広州市の「ナヌムの家」で8日午後、父母の日記念式と今年で100歳になったパク・オクソンさんの上寿の宴が開かれた。パク・オクソンさんが記念写真を撮っている=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社

 日帝強占期に慰安婦として中国に連れて行かれたパク・オクソンさんの上寿の宴が開かれた。

 日本軍「慰安婦」被害女性たちの暮らす京畿道広州市(クァンジュシ)の「ナヌムの家」は、父母の日の8日午後、父母の日記念式と、今年で100歳を迎えたパクさんの上寿の宴を開いた。

 1924年に慶尚南道密陽(ミリャン)で生まれたパク・オクソンさんは、18歳だった1941年に紡織工場に行くと思ってついて行ったところ、中国の黒竜江省の慰安所に連れていかれ、4年近く「アキコ」と呼ばれて慰安婦生活を強要された。45年にソ連軍の侵攻を受け日本軍に混じって山中をさまよっていたパクさんは、食べ物をめぐんでもらいに行った村に定着し、15歳年上の朝鮮族の同胞と結婚して2男1女をもうけた。解放直後に慰安所から出られたものの、「慰安婦」の被害にあったという自責の念から故郷に帰ることは考えなかった。

 パクさんが韓国に戻れたのは、ようやく2001年になってから。帰国したパクさんは「休日になると扉の前に立って催促する兵士たちを相手にしている途中で何度も死のうとも考えたが、どうしても死ぬことができず生き残った」、「そのすべての話が恥ずかしくて、これまで誰にも話さなかったが、もう老いて病んでいるので口を開いた」と涙ながらに語った。

日本軍「慰安婦」被害者のイ・ヨンスさん(左から)、パク・オクソンさん、カン・イルチュルさん、イ・オクソンさんが記念写真を撮っている=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社
パク・オクソンさん(左)とカン・イルチュルさんが手をつないでいる=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社
家族が日本軍「慰安婦」被害者のイ・ヨンスさん(左から)、パク・オクソンさん、カン・イルチュルさん、イ・オクソンさんに儒教式の礼をささげている=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社

 朴槿恵(パク・クネ)政権時代の2015年に韓日慰安婦合意が発表された際には、ナヌムの家で「慰安婦被害者国際訴訟および韓日国交正常化50年に対する被害者の立場」を発表し、「今や言葉より行動が必要な時であり、日本軍『慰安婦』被害問題は現在と未来の問題」だとして日本の公式謝罪と賠償を求めた。

 この日の父母の日記念式と上寿の宴には、ナヌムの家で共に暮らしているカン・イルチュルさん、イ・オクソンさんと、大邱(テグ)とナヌムの家を行き来しているイ・ヨンスさんが参加した。車椅子に乗って行事に参加したパクさんは気力が弱まっており、発話が難しい。

 パクさんが韓国に入国して以降の、活発な外部活動を展開していたころの写真を以下に集めた。

2001年に帰国したパク・オクソンさんが60年ぶりに弟のパク・スンチョルさん(仮名)と会い、抱き合って泣いている=女性部提供//ハンギョレ新聞社
韓国国籍を回復したパク・オクソンさんが2003年、生まれて初めて住民登録証の発給を受け、喜びを隠せずにいる/聯合ニュース
日本軍「慰安婦」被害者イ・ヨンニョさん(前方)とパク・オクソンさんが2007年、ナヌムの家で開かれた小正月の地神踏み行事で農楽の拍子に合わせて踊っている=資料写真//ハンギョレ新聞社
2013年に亡くなったイ・ヨンニョさんの告別式。ナヌムの家にて。パク・オクソンさんがイさんの遺影をなでながら別れを告げている=イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
2016年1月、ソウル鍾路区の日本大使館前で韓国挺身隊問題対策協議会の主催で行われた韓日日本軍「慰安婦」合意無効集会に被害女性たちが参加している。左からイ・オクソンさん、パク・オクソンさん、イ・ヨンスさん、カン・イルチュルさん、キル・ウォノクさん=資料写真//ハンギョレ新聞社
韓日日本軍慰安婦被害者問題合意検討TFが検討結果を発表した2017年12月、ナヌムの家でイ・オクソンさん(左から2人目)、パク・オクソンさん(同3人目)が中継を見ている。イさんは「被害女性たちの意見をまったく無視した合意は無効」と語った=シン・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社
キム・ヘユン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/rights/1090936.html韓国語原文入力:2023-05-08 17:39
訳D.K

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