17日午後、全羅南道羅州市大湖洞(ナジュシ・テホドン)のHマンションの敬老堂(高齢者の住民のための憩いの場)で、6人が集まって花札をしていた。日本による植民地時代の1945年2月、日本の不二越鋼材工業に動員されたチュ・グミョンさん(95)に挨拶した。「ああ、いらっしゃったね。ちょっと待って」。1927年生まれのチュさんは花札を中座して出てきて「私みたいな人に何を聞きに来たんだい」と言った。
全羅南道羅州市大湖洞生まれのチュさんは、1945年2月に富山県の不二越鋼材に動員された。小学校5年生の時、不二越の関係者が教室にやってきた。「日本に行けばお金も稼げるとか、あれもこれもできるとか、いろんなことを言ってたんだ」。チュさんのクラスから2人が「志願」した。「母さんに日本に行ってお金を稼いでくると言ったら、『お前みたいな幼い子がそんな所まで行ってお金を稼ぐだなんて』と言って、母さんも泣き、私も泣いた」
日本の不二越工場に行ったチュさんに与えられた業務は、鉄を削ることだった。「ご飯と汁ものがほんのちょっぴり出て、それを食べて、寝て、毎日鉄ばかり削った」。「勉強させてあげる」という言葉は嘘だった。賃金も一銭ももらえず「強制労働」をしなければならなかった。チュさんは当時、韓国人の友達と作って歌った一曲をはっきり覚えていた。「不二越良いとこ誰が言うた/桜木陰の木の下で/人事の木村が言うたそうだ/私はまんまとだまされた」
死の峠をぎりぎり越えた。1945年7月、米軍の爆撃機が出没する日が多くなった。空襲警報が鳴ると工場の外に避難した。不二越は「村だったから、木も多くて真っ暗で私たちの方には爆弾を落とさなかった」。かろうじて命拾いした。8月15日、解放されたと聞いて、大阪と釜山を経て羅州に戻った。故郷ではチュさんが死んだと知らされていたという。17歳で故郷に戻り、19歳で結婚したチュさんは、息子4人に娘が2人いる。「日本に行ってきた話はしてない。義姉たちも、まだ知らないんだ」
チュさんは2019年4月、不二越鋼材を被告として光州地方裁判所に損害賠償請求訴訟を提起した。「幼い年齢で行って苦労したんだから、いくらかでも補償してもらえらたらいいけど、くれないって言うのをどうやってもらえばいいんだか。死ぬ前に補償してもらって、食べるもの、着るものに使って死ぬならこれ以上望むものはないよ」